Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

男と女の民俗誌③

2008-10-30 12:36:51 | 民俗学
 男と女の民俗誌②より

 今年は身近で自殺で亡くなった人がいて、何度か自殺について触れてきた。それは若い世代の自殺であったが、実際自殺者数は中高年において増加している。その理由の一つともいえるのは生命保険との絡みである。昔のような家族が崩壊し、今や熟年離婚というものが突然とやってくる。「子どものために」と働いてきた親たちは、子どもが一応それらしく一人前になれば、強いて夫婦という形を継続して「子どものために」と思う必要もなくなる。意外にこの意識はかつての老後とは大きな違いがあるのかもしれない。親と子ども、長子であっても家に縛られることなく自由に思うがままに生きる。親は自分たちの余生だけに生きればよいととすれば離婚もありうるわけだ。裏を返せばこの世の中はずいぶんと裕福になったといえるのだろう。そのような金銭的にも時間的にも余裕も無く働いていた時代に比較すれば、余裕のなす業なのかもしれない。しかし、いっぽうで高年齢化社会の偶然ともいえるのかもしれない。「定年」という境界、そしてそこに付随する「生命保険」という境界、さまざまにそうした境界域は人々の心の中を揺さぶる。

 八木透氏は「男の民俗誌」(『日本の民俗7』2008/9吉川弘文館)の中で、「男のプライド」について説いている。「妻子をただ養うに止まらず、豊かな暮らしを自分が保証しなければならない」という責任感が潜んでいるといい、いざとなった時に「生命保険」がそのプライドを示す切り札にもなるというのだ。服部誠氏は「恋愛・結婚・家庭」(同署)の中で結婚の基本姿勢の中にかつても今も「上昇婚」があると述べている。女性は少しでも上の暮らしを求めて結婚相手を選択する。かてならどれほど嫁の立場が苦しくとも暮らし向きの良い家に嫁ぐことで、上昇を前提として苦労も耐えることができた。そして現在は言うまでもなく財産のある家、収入のある家に嫁げばそのまま自らの立場を誇示できることは言うまでもなく、すべてにおいて展開は広がる。格差社会という名の根源はそこにある。もし上昇環境でない場合、離婚というレッテルを恐れてためらうものはあっても今やそうした離婚も日常的なことで、農村社会でも珍しいことではない。こうしてくるとますます上昇機運が高まるのは言うまでもない。そうした意識が変わらず生きている以上、「男のプライド」も生き続けるのである。自殺者にも保険料が支払われる現制度下において、境界を目の前にプライドを賭けた葛藤を繰り広げるのだ。今後の男たちはともかくとして、中高年層においてはまだまだ男たちは女性に依存している。離婚されて独り身になって貧しい人生をおくるくらいなら、自殺してプライドを示すという方法は確実なものであるのかもしれない。

 「子どもの時は「決して弱音を吐かない男の子」を要求され、青春時代は「女性をリードできるたくましい男性」を演じ、結婚後は「頼りになるお父さん」であり続けた男性たちが、老後に行き着く先が「自殺」であったり「産業廃棄物」であるのは、何ともやるせない思いだ」と言う八木透氏は(前掲書)、民俗社会に生きた男たちの「生きがい」や「プライド」は何だったのだろうと問う。そして「男としての一人前」の姿とはどういうものであったのかという部分を「男の民俗誌」の中で事例をあげていく。それらは成人儀礼や村落社会におけるトウヤ祭祀などの男性の役割であり、加えてそれらは男性だけで成り立つ役割ではなかったことにも触れている(夫婦家族の支え)。

 とはいえ、プライドを誇示するがために仕事人間になってきた男性の行き着く先が、前述のような現状であることは変わらない。まさに男性受難の時代である今、ではどう男たちは生きるべきなのか。八木透氏は、「無自覚に背負い込んできた「男らしさ」を自覚し、強迫観念を棄ててそこから自由になり、自分にとっての心地よい本当の「自分らしさ」を見つけることだといえるだろう」という。そしてそれは「多様な男らしさを受け入れる」ことを意味するといい、なすべきことの第一と掲げる。第二には「男性にも「更年期」があり、それが原因でこれまでは社会的に認知されなかった、男であるがゆえのさまざまな心身の障害があることを皆が早く自覚することである」と述べ、それは「男らしさ」からの開放につながるという。第三は「「熟年期」から「老年期」の男の生き方を前向きに模索することである」という。どれもいまひとつ具体性に欠ける「なすべきこと」で難しい言い回しである。

 さて、八木透氏は「男の民俗誌」のなかでかつていたトリアゲジサのことに触れている。男は助産婦にはなれないのか、という問いのなかで両性から嫌われている男は、現代においては体質的に受け入れられない存在となっていることについて触れている。介護問題がクローズアップされるなか、男性の介護従事者も多くなっているのだろうが、男性にも嫌われる男という存在ではなかなか喜ばれはしない。確かに男に面倒を見られるよりも女性に見てもらった方が嬉しいと思う人は多いのかもしれない。しかし、この根底に男と女という立場と、弱みを握られるという意識がどうもこの世の中では不安定な存在になっているのではないだろうか。信頼関係の崩れた社会において、男の存在はまことに悲しいものとなっているに違いない。

 続く
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