Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

雑な物を取り除いて・・・

2008-10-17 21:31:35 | ひとから学ぶ


 わたしは矛盾したことをたくさん言っているのかもしれない。かつて会社の先行きを考える会のメンバーに選ばれた時、「何に対しても反対するタイプの人間」ということで「こういうタイプは1人は必要」などというのが選ばれた理由。気分はよくないが、そういう面を確かに持っている。人と言うのはもっている雰囲気と言うものもあって、口調から実際言っているものとは別のイメージで捉えられてしまうということもよくある。人の上に立ち、みなを引っ張っていく人たちの器量の大きさを改めて思うとともに、批判はするものの実際にはその人たちの立場にはなりえないという自分は、ずいぶんと小さなものだと認識せざるを得ないのである。

 昨日、地方のなんでもない景色のある一部分だけをトリミングして額縁に入れるような暮らしの選択をして欲しくないといった。しかし、生活はあくまでもそんなものではないが、切り取って自分がモノの見方を表現することはけして悪いことではない。写真はかなり自由に、そして短時間に表現のできる格好の方法である。絵を描くのとはだいぶその容易さに違いがある。子どものころ絵を描くことも嫌いではなかったが、上手いとはとても言えない絵は、人に見せられるようなるにはなかなかの努力が必要だ。ところが写真はまったくの素人でも人を引き付けることができる。安易にそこへ走ってしまうのは解りやすい人間の気持ちである。だから写真を撮るというけして安易とは言い切れないが、素人でも表現しやすい世界を好んだことも事実なのだが、以前にも触れたように祭りの写真を撮ったりしているなかで、いわゆるアマチュアカメラマンと言われる人たちの態度には納得できないものを感じた。ようはトリミングする世界には、邪魔なものは入り込んで欲しくないわけである。北相木村の「かなんばれ」というひな流しの行事で、可愛い女の子だけを並べて男の子を排除させた教頭先生。彼はカメラマンの要望に応じてそんな対応をしてしまった。また、小浜市西津の地蔵盆で、海端に出張して念仏を唱えていた子どもたちを写真に納めようとしたら、「ぼくたちがお金を出して連れて来たんだから、お前は撮るな」と罵声を浴びせたカメラマン。こんな事例をあげると山ほどあって、思い出すと腹立たしいばかりだ。それでも思わず引き込まれる写真は背景はともかくとして存在し、もしかしたら嘘の世界が本当のように表現される。芸術か記録かという撮る側の意図の違いかもしれない。しかし、だからといってまがい物というのも視点の違いなのだろう。実は自らトリミングした写真を用意しながら、とはいえ写真の世界は意図の深いものだと思い、こんな文を下書きしていたところ、Akiさんに見事に指摘をされた。「矛盾したことを・・・」と思っていたらのタイミングだから、下書きをそのまま本日の日記にするために書きかえた。

 そんなことを思い続きを書くことにしよう。前述したようにそれぞれが思うものを表現するのは自由であるし、またその表現に意図があるからこそ、また人の共感を呼ぶ。けしてその背景で何が行われていようと、意図というものと背景が整合しなくてはならないことはない。だからこそ絵と同じように深い表現があると思う。ところが言葉で具体的に意図が表現されていない、いわゆる捉える側が何をそこから拾い上げるかについては受けて側に任される。そこに問題が生まれる。ようは芸術ならともかく、観光用の、あるいは人寄せのための写真は、やはりまがい物でもよいというどこか怪しさが漂ってしまう。なぜならやはり切り取られた世界だからだ。それを良しとして人寄せするのは、了解のない作成者の独りよがりなのだ。「トータルな暮らしを実感しよう」で書いたように、わたしたちは観光も、そして住んでいる人を減らさないという視点でも、できる範囲でどういうことをすればよいかを地道に話し合わなくてはならないと思う。安易な移住者へのアプローチや、観光誘致は必ずしも地域継続や地域の将来ということに立つと得策とは言えないはずだ。もちろんそこまで計算されてやっているのなら別であるが。

 わたしたちは切り取られた景色の中で生きているわけではない。多くの課題を持った地域のすべてを担って暮らしているはずだ。それはわたしがわたしに課しているテーマでもあり、また、自らがトリミングされた景色を象徴的に捉えてしまってはいけないと自らへの戒めとしている。それをこの地域の人たちに解ってもらいたいと思う。前述したように意図的に表現をしようとして写真を切り取るのとはわけが異なる。

 ところで、そんなことを考えていて気がついたことがある。かつてフィルムで写真を撮った時代には、できうる限りトリミングは前提にしなかった。たとえば35mmフィルムをトリミングすれば、35mmの画面を有効に使えない。50%切り取ってしまえば35mmハーフサイズになってしまう。だからサイズをより有効に使うためにはトリミングをしないことが当たり前だった。すればするほどに画像は荒くなる。ところがデジタルとなると違う。撮影する際に常に最大ピクセルで高画質で撮っているひとならいざ知らず、ふつうにスナップで撮影している人の多くは、画質にそれほどシビアではない。だからトリミングありきになってしまう。事実かつてフィルム利用時にはトリミングなどしなかった自分が、デジタルで撮影すると特段トリミングに抵抗がないのだから・・・。

 撮影〔辰野町北大出 2008/10/15〕
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