子どものころ、お使いで隣家や周辺の家に行くのは楽しみのひとつであった。そのお使いというのもそれほどたいした使いではないのだが、必ずといってよいほど、行った家では“お駄賃”をいただける。お駄賃などというと物を運んだ運賃のようであるが、子どもへのおやつのようなものである。子どもだからおこづかいをあげるなどということがあるはずもない。どれほど重要な使いであったとしてもそんなことはないのである。さまざまな義理が金銭で行われるようになると、品物に対しての意識は低下していく。それにならったように品物は世の中に氾濫し、先ごろ「いただき物」で触れたように有り余っている物をもらっても嬉しくくない、ということになる。おなじくして子どもたちも物をもらっても嬉しくなくなる。迷惑になる、と差し上げる側も気にするようになるから、そんな“お駄賃”などというものが消えていく。
子どものころ祖母や母は、かならずへそくりのようにどこかにそんなお駄賃を置いていた。そうしないと子どもたちがお使いに来てもすぐにあげられなくなる。だからお使いに行っておじさんやお爺さんが現れると、少しとまどってしまうのだ、「もらえないかもしれない」と。でもそんな時にもお駄賃をもらえると、いつも以上に嬉しく思うものだった。不思議な心のありようであった。また、そんなお駄賃隠し場所を探し出して口にしてしまうなどということもあった。子どもがお使いに来て「あったはずのお菓子がない」という言葉を独り言のようにいう姿も思いだす。そんな時は「ごめんね、今度ね」という具合に謝るのだ。不思議な光景かもしれないが、それぞれの思いがそこにあるとともに、それがどこの家でも見られる光景であったことが、また不思議で楽しいことなのだ。もちろんすべての家ではなく、お駄賃を一切いただけにない家もあった。だからといってお使いに行かないわけにもいかず、出かけたものだが、きっとそのときのわたしの顔は、「こんにちは」という言葉ととともに、暗い表情だったのかもしれないが、記憶にはない。
さてそんな具合に子どもが来ればお駄賃を、と用意していた時代なら家に必ず駄菓子やら煎餅やら隠されていたものだが、そうした人の往来も激減して、例えばわが家でも家族が食べ散らかしている菓子はあっても、簡単に“お駄賃”といってあげられるようなものは置いてない。この時代だから子どもがお使いにやってくるなどということは、年に1度あるかないかで、そのために用意しておくなどということはない。もちろんそんな環境下では子どもがそんな楽しみを抱いてやってくるなどということもない。味気ないものなのだ。それでも子どもをつれてやってくる大人や、子どものいる大人に対して、かつての“お駄賃”と同じような意識で物をあげたいと思うことはあるようで、時折来客があった際、妻が何かないかと戸棚やらをごそごそとやっている光景を見る。日ごろそんな意識を持ち合わせていないから、結局なかったりする。まず“お駄賃”として利用することはありえないことなのだが、最近は自ら“お駄賃”にも利用可能なお茶菓子を用意しておいたりする。妻が「なんでこんなにお菓子ばかり、糖尿病になるよ」と言われるときの言い訳てはないのたが…。
子どものころ祖母や母は、かならずへそくりのようにどこかにそんなお駄賃を置いていた。そうしないと子どもたちがお使いに来てもすぐにあげられなくなる。だからお使いに行っておじさんやお爺さんが現れると、少しとまどってしまうのだ、「もらえないかもしれない」と。でもそんな時にもお駄賃をもらえると、いつも以上に嬉しく思うものだった。不思議な心のありようであった。また、そんなお駄賃隠し場所を探し出して口にしてしまうなどということもあった。子どもがお使いに来て「あったはずのお菓子がない」という言葉を独り言のようにいう姿も思いだす。そんな時は「ごめんね、今度ね」という具合に謝るのだ。不思議な光景かもしれないが、それぞれの思いがそこにあるとともに、それがどこの家でも見られる光景であったことが、また不思議で楽しいことなのだ。もちろんすべての家ではなく、お駄賃を一切いただけにない家もあった。だからといってお使いに行かないわけにもいかず、出かけたものだが、きっとそのときのわたしの顔は、「こんにちは」という言葉ととともに、暗い表情だったのかもしれないが、記憶にはない。
さてそんな具合に子どもが来ればお駄賃を、と用意していた時代なら家に必ず駄菓子やら煎餅やら隠されていたものだが、そうした人の往来も激減して、例えばわが家でも家族が食べ散らかしている菓子はあっても、簡単に“お駄賃”といってあげられるようなものは置いてない。この時代だから子どもがお使いにやってくるなどということは、年に1度あるかないかで、そのために用意しておくなどということはない。もちろんそんな環境下では子どもがそんな楽しみを抱いてやってくるなどということもない。味気ないものなのだ。それでも子どもをつれてやってくる大人や、子どものいる大人に対して、かつての“お駄賃”と同じような意識で物をあげたいと思うことはあるようで、時折来客があった際、妻が何かないかと戸棚やらをごそごそとやっている光景を見る。日ごろそんな意識を持ち合わせていないから、結局なかったりする。まず“お駄賃”として利用することはありえないことなのだが、最近は自ら“お駄賃”にも利用可能なお茶菓子を用意しておいたりする。妻が「なんでこんなにお菓子ばかり、糖尿病になるよ」と言われるときの言い訳てはないのたが…。