Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

弁当を作る

2008-10-25 10:00:48 | つぶやき
 ここ数日の間、妻が不在であった。冷蔵庫を開けると、そこには賞味期限はもちろんのこと、消費期限の切れた食べ物も見える。我が家では賞味期限切れのものを処理することはありえない。加えて消費期限切れのものでもよほどのことがなければ捨てはしない。ということでふだん冷蔵庫内を管理していない者には、本当のところ食材としてダメなのかどうなのかというところははっきりしないものが多い。とくに期限表示されているものであればまだしも、そうでないもの、例えばわが家で調達できる玉子やら加工品、さらには一度食材として利用したものの残りのようなものは何ともわたしには判断が出来ないのである。せめてそのあたりが整理されていれば良いが、どうみても食べられそうもないものも混ざっていると、不安は増大するのである。

 ということでこの4日ほど自ら弁当を詰めて会社へ向かった。正確に言うと弁当ではなく“むすび”にして行った日もあるから「詰めた」というのは正しくない。おかずさえたくさんあれば弁当の方が手間はかからない。ところがおかずがないともなれば、とりあえず“むすび”だけでもと思って握ることになる。むすびだけでは栄養バランスに問題はあるが、外食してお金を使うことを思えばその方がいい。弁当をとるにしても外食するにしても、一食食べれば500円くらいは最低必要となる。それを弁当で済ませればずいぶんと安上がりだし、夕食や朝食と兼用したおかずで間に合う。よく弁当など作ればその方がお金がかかるという人がいるが、確かに手間などを考慮するとなんともいえないかもしれないが、基本的に農家がよその米を食べるなどと言うことを繰り返してきたからこんな食糧事情を生んでいる。米作りをしている農家はほとんど米については自給できるはずなのに、よその米を食べることにいささかも抵抗がないようだ。このあたりを最近とくに感じるようになった。いまさら、というか今頃になって気がついているようでは遅いのだろうが、こういう基本的なことは子どもたちにも教えていかなくてはいけないことだろう。とはいえ、外食をまったくしないなどということは不可能である。しかし、特別な日ではない限り、自らの家の米を食べたいと思う。裕福な暮らしをしているわけではないのだから、当然のことと受け止めている。

 さてそんなことで、自分の弁当であればおかずなど何でも良いのだが、息子の弁当まで用意するとともなるとそうはいかない。自分の弁当だけ作って息子には外で食べろというのでは前述した主旨に合わない。ということでわたしの弁当のおかずでは息子が納得しないことは解っている。何よりわたしの弁当はほとんど緑色のものばかりである。とりあえずというのなら野菜炒めでも入っていれば十分である。だいたい弁当を持ち合わせていなくて、外食する機会にもメニューで最初に探すのが「野菜炒め」である。考えてみればよその米は食べるべきではないと言いながら、同じようなことは野菜にも言えること。にも関わらず野菜炒めを選択しようとするのはそれさえあれば満足だからである。息子は肉を食べたい。しかしわたしは肉はそれほど好まない。今時の若い人たちの好みのものなど作れるはずもないのだ。したがって「父はお前の好みのものはできないから、“むすび”だけは作る」と言ってむすびを握る。それでも毎日それではまずいと思い、玉子焼きとウインナー、肉を無理やり入れた野菜炒めを少しばかり入れて、あとはリンゴを入れてお終い。とりあえずわたしの弁当は4日、息子の弁当も3日間に合わした。長野での単身赴任時代に毎日弁当を作っていのだから苦にはならない。とそんな弁当のことを思い出せば、二十歳前後のころにもわたしは弁当を作って会社に行っていた。よく作ったものだと感心するが、人にはとても見せられる弁当ではなかった。そのころの弁当ときたら、焼きそばを作っておかずはそれだけという日が毎日だった。何よりお金がなかったから、外食とかは選択に無い。何でもよいから弁当を作る。それしか頭になかった。そんな大昔の自分の生活を思うと、このごろの弁当作りもそのころの意識の賜物かもしれない。
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