Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

人社会の迷走①

2008-10-03 12:27:11 | つぶやき
 人としての常識というものは明文化されているものもあれば、そうでないものもある。明文化しているものとして法律で決められたものがあるが、それだって「解釈」という部分で変化する生き物ようだ。専門分野のことなど無関係な者には認識できるものでもないわけで、常識というものを人が網羅することは不可能である。大人の行動に対して、「子どもが見ているから」と言えるのは、小学生の間なのか、それとも中学生までなのか、さらには二十歳までの人を対象にしているのか、その境目だって明確ではない。わたしが通勤する際に通る道には、横断歩道が何箇所かにある。小学校の前にもあるのだが、道交法上の正規なものかどうかは知らない。そんな怪しいものもあるのだから法律にのっとればどうなのか、まで考え出すと結局くだらない議論になってしまう。

 そんな小学校前にある横断歩道のある道、通る車は数分に1台程度というあまり車の通らない道である。この道を左から右へ渡って駅へ向かう。本来なら横断歩道で渡るべきなのだろうが、ほとんど車が通らないのと、道幅も6メートル程度と広くないから、わたしは近道をするように斜めに横断していく。近道的な発想だとどうしても横断歩道の近くで渡るため、これを「子どもたちが真似をする」と指摘されれば確かにまずい行動である。子どもが近くにいるときは横断歩道まで行って、なるべく直角に渡るようにし、そうでないときはかなり斜めに渡るというのがわたしの考えである。どこで誰が見ているか解らないから、ということになれば、本来前者の行動を常にしなくてはならないのは当然のことである。「道路では横断歩道を渡るように」という法規があるとしても、では歩いている人に横断歩道の位置が認識されているかということも関わってくる。信号機のあるような交差点が見えれば当然のように横断歩道が併存するだろうが、信号機が見えないとなれば、どこでも渡らざるをえない。そのあたりが認識していたかしていなかったかという「殺すつもりがあったかなかったか」という分かれ目と同じになる。人間正直だとそれを逆手に取られてしまうわけで、そのあたりを知っていて聞く方も誘導するように聞く。正直な者がバカを見るケースがいっこうになくならないのも、そんな納得できない解釈と判断があるからだ。公の場においても、相手が何を意図して聞こうとしているか理解できないでいると、こちらでは意図していなかった方向に話がそれていってしまうことがある。それが意外と致命的になって、商談成立とならないわけだが、駆け引き区いうか騙しのような世界でもある。ある報告内容が、ある問題に対して解決する方法を探っているとする。ところがその報告を検査する側が、こちらはそれほど重要だと思っていなかったような箇所を突いて「この問題は本当は違う理由で発生しているのではないですか」と問う。こちらは解決する策に対してストーリーを立てているから、さまざまな視点を取り入れて検討までしていない。それはそうした視点に立つ人に遭遇することで気がつくことであって、必ずしも同じ視点で他の人が指摘するとは限らない。もちろんこれが業務となれば、100%完璧な成果はありえない。委託側が納得すれば10%でも50%でも請けた側は納めれば勝ちみたいなものなのだ。

 世の中にはそんなこちらが意図しないような盲点を突くことを楽しみにしている人たちもいる。恵まれていないといってしまうといけないが、人の幸福を妬むような人たちにもそうした人はいる。そんな世間での技を持ち合わせていないと、なかなかこのスリルのある世界を生き抜いていけないのである。

 続く

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