Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

針と糸

2008-10-12 18:22:31 | つぶやき
 「気に入らなきゃ自分でやれ」、そんな言葉が耳に焼き付いている。それを思うからこそ、また自分でやることにもなる。母とのやり取りはそんなことの毎日だった。女の子なら母親の助けになるだろうが、男の子というものはそうはいかないのが常なのだ。そんな現実を毎日目の当たりにしているのだから、母はこんなこともよく口にした。「女の子がいれば良いのに」と。それもわたしにはよく解った。自分の母親に対する抵抗感を持ちながら、また逆に母親に対する思い入れもあった。「大きくなったら母親のそばで」と思うものの、自分は長子ではないからそれは適わないわけだ。母親と息子という関係は、多感な時期になればなるほど険悪なものとなる。そんな時期もあると解っているのは意外にも男親なのだろうが、現代において男親の存在は家庭の中でいかなるものなのか、というところを問わなくてはならなくになる。そんなことを考えさせられるこのごろの「家庭」である。

 さて、冒頭の口癖はわたしが母親にズボンのすそ上げを頼んだ時によく発せられる。昔も購入した店ですそ上げということはしてくれたのだろうが、①またその店に行かなくてはならない、②すそ上げするにもお金がかかる、③すぐに使えない、というような理由ですそ上げを頼むなどと言うことはまずなかった。ほかの人もそんな意識を持っていたかは知らないが、我が家ではズボンを買ってくると、母親が必ずすそ上げをしてくれるのである。ところが一度すそ上げをするものの、どうも長さが気に入らなかったりすると、「長さが気に入らない」と言って直してもらうことになる。あまりにうるさく言うので冒頭の言葉が発せられるのである。そんなことを繰り返していると、「自分でやるわ」ということになる。だから子どものころからけっこう針と糸を持つことは多かった。昔の母親たちは、みなこうして器用に裁縫なりこまごまとした作業をしたものである。

 先ごろ生家の祭りを訪れた際に、悪い経験を記憶からなくしていたため、花火のしたで割合新しいシャツに火傷の穴を作ってしまった。このままではちょっと外出には着られないため、「なんとかならないか」と妻に言うと、「母に縫ってもらう」ということになった。妻が針と糸を持った姿を見たことがない。解っているから必要な時は自ら持つ。昨日、その火傷を負ったシャツの穴が塞がれて戻ってきた。器用なもので濃い色のシャツだから大きな穴ではあるがそれほど目立たなくなっている。すでに外出しても誰かに見れているような歳でもないことで、そんなつぎはぎのものを着ても気にすることはない。ましてや、上着を着るこれからの時期なら十分使える。まさにわが家ではかつての農家の暮らしを今も継続している。

 シャツといえば、まず襟元がすれて切れてくる。それでも使い続け、完全に破れてしまっても家用として着続ける。だからそんなシャツばかりが衣料ケースにたまって膨れ上がっている。「そろそろ捨てれば」と言ってもなぜかそのままになる。このごろはそんな服で買い物に行っても気にもならなくなってきた。いよいよ年寄りの世界かとも思うが、近ごろの年寄りなどそんなものを着てはいない。繕われたシャツを見ていて、「自分でもできるかな」と思ったりする。そういえば昔からいかに糸を見せずにすそ上げをするか、などということを工夫していたものだ。いや、母親にすそ上げしてもらにったものの、そんな糸の見え具合が気に入らないと言ってクレームをつけたこともあった。そんなことで冒頭の言葉が出たこともあった。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****