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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

指定文化財解除申請

2008-10-09 12:31:05 | 民俗学
 「現在を捉える」において、倉石忠彦氏の「民俗の「創造」ということ」について触れた。「民俗学の、また長野県民俗の会の活性化に向けて、もう一度日々の生活を見直すことは、大いに意味のあることといわねばならない」と、会員に叱咤激励をしている。この指摘を掲載している「長野県民俗の会通信」207号のもう一つの報告は、多田井幸視氏の「過疎化と文化財保護のありたかた」というものである。旧上水内郡大岡村(現長野市)長岩地区に伝わる「塩竃神社の祭事」が、先ごろ長野市指定文化財解除申請が出され審議されたという。祭日に出していた甘酒を社殿まで担ぎ上げることが困難になり、従来の祭事を継続できないということで申請されたものらしい。旧大岡村は仕事で何度も訪れた村で、わたしにも印象深い村である。ちょうど合併した時期にお世話になっていたこともあり、前後の村を知っている。もちろん合併したからといって大きな変化が見えたわけではないが、市内から1時間ほどもかかるこの村は、いわゆる動脈と言える鉄道や高速道路といったものから離れた地にある。ということで主要な市のどこからも遠く、不自然な形で長野市に編入された。山間の傾斜地がほとんどで高齢化率も県内ではとくに高く、典型的な山間地ということになる。

 佃見沢沿いにある長岩の集落がすぐに浮かんでこないあたりは、わたしの記憶には薄いものの、芦の尻から小別当、長地、佃見と下る道は何度も走っている。小別当にはすでに住んでいる家はほとんどなく、長岩も佃見も、国道19号へ下る道沿いに点在して家が数軒残る。ここから国道19号に出れば旧北安曇郡八坂村である。国道19号は長野市と松本市を結んでいるが、このあたりまでくると、すでに松本平の香りもする。長岩の由来とも言われる尾根にある巨岩の上に奥州の塩竃神社から安産の神を勧請したといい、村内はもとより筑北や安曇からも安産と子授かりを祈願する人が詣ったという。祭りの日には甘酒を仕込み桶で岩の上まで担ぎ上げてふるまったという。二斗桶に担ぎ棒を渡し前後で担ぎ、岩山上部の夫婦松脇まで溢れさせないように持ち上げるというのだ。戦後しだいに人口が減少し二斗が一斗、さらには三升となり、長岩だけでは継続できず、下方の佃見集落に助けをもらうようになったという。現在では三役だけがお札とその年の当番が作った少量の甘酒とお神酒などを持って参っている状態で、かつてのような賑わいはまったくないようだ。直らいは代表者が帰った後、集会所に戻ってから行われるという。まだ手作りの甘酒が作られているが、いずれは買ったものが使われるのではないかともいう。その理由は高齢化もある。平均70歳を過ぎた者ばかりで巨岩の上まで参るのは危険だと言う。さらには神社そのものの維持さえ困難になっているともいう。

 その祭りがもっと著名で、大掛かりなものともなれば、それを助けようと外部のものが手を出すというケースや、出て行った者が帰ってくるというケースもあるが、小規模の集落で続けられてきたものはそうはいかないのだ。そしてその祭りの意図が、安産や子授かりというのだから、年老いてしまった集落にはすでに祭りを続ける意味が無くなってしまってもいる。

 多田井氏は「地域の民俗文化を維持できなくなっている状況は、民俗文化財として指定されている、いないに関わらず全国津々浦々で起きている。こうした直ぐには解決できそうもない問題を如何に克服して、ムラ人が本当に願うものに近づけていけるか、今こそ「経世済民」を謳う民俗学徒に課せられた課題といえる」という。結論の言葉はかなり難しいことを唱えている。わたしは民俗学徒とはいえそうもないから良いが、果たして民俗学徒といわれる人たちは、農業とか、集落とか、そしてそこに済む人々の気持ちをどれだけ認識しているだろうか。一様ではないさまざまな環境を持つ集落において、おしなべてこうした問題は起きているものの、背景は多様であるりはずだ。さらにはこの時代、地元の人間だけではなく、そこから出て行った人間や、またまったく縁のない人間が関わってきたりする。その度合いによって状況は違ってくる。倉石氏が「創造」という部分に触れたいっぽうで、文化財とされている過去からの贈り物は、別個の世界の難題を問いかけている。

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