Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

思い込んで山登り

2008-10-22 12:23:12 | つぶやき


 現場に出た折に伊那市笠原の御射山神社で昼をとった。この御射山神社のある場所は蟻塚城跡のあった場所で、伊那市内でも山城の形をもっともよく残した城跡である。御射山神社のことは知っていたが、もともとお城に興味があったわけではなかったため、神社が城跡にあるということを認識していなかった。現場に出て昼を取るときは、こんな具合に神社とかお寺とかを目安にする。食べ終わって少しばかりの時間に、たて看板などを見て「へー、そうなんだ」程度に余暇をつぶすのが、現場での昼の楽しみである。看板を見ていて注目したのが、「この城からの眺望は素晴らしく、あだしの原(六道原)をはじめ、遠く西山(木曽山脈)まで一望できる」という部分である。なぜか「眺望がよい」というところに注目しすぎて、神社の裏の本郭まで登ろうと考えた。ところが、神社のすぐ裏の堀を越え、本郭のあたりまで行ってもとても眺望がよいという状態ではなく、その場ではその鬱蒼とした林がを本郭だと認識しなかったのだ。そのためこの裏の山の上が城なのでは?、と思い込んでひたすら山を登る行動に出てしまった。急峻な松林を登りやっとたどり着いた山の上は、看板にあるように確かに30メートル×50メートル近い広さがある。山上で「ここだ」と思う達成感を味わってみたものの、やはり松林が邪魔で、下界を望むことはできない。かろうじて木々の間から六道原がなんとなく見えるものの、かろうじてという世界で、期待した視界とはまったく異なっていた。それでもおそらく二度と登ることはないであろう山に登った達成感を味わったとともに、その平らにある祠と、少しばかり枯れている大木の松に目を奪われそんな光景を写真に撮って山を降りた。山上の平らの北側にも堀らしきものがあって、完全にそこが蟻塚城だと思い込んでの下山であった。

 ところがである。自宅でその城跡をもう一度確認してみると、『伊那市史歴史編』に城跡実測図なるものが掲載されている。それには御射山神社とすぐ裏の本郭が描かれていて、神社と本郭との距離はとてもわたしが登った山上と神社のような距離ではない。そのとき「あの山上は蟻塚城ではないんだ」とようやく気がついたしだいである。けっこうこんな思い込みをするわたしである。もう一度現地にあった看板の図を、撮影した写真で確認してみると、御射山神社と本郭はすぐである。こんなものである。しかし、この経験で蟻塚城跡のことはそう簡単には忘れないだろう。



 笠原といえば獅子舞をかつて訪れたことがある。当時は4月29日の天皇誕生日が祭日であったが、今も当時と同じ日なのかは知らない。御射山神社の境内で舞われると、里に下りて家々を回って舞をする。起源は定かではないが、1264年の記録に「村の若者が獅子頭をつけ、抜刀を神前に供えるという形があり」(『伊那市史現代編』)というからかなり古い話である。ちょっと古すぎるからその時代に本当に舞われていたのかは解らないが、さらに1501年には「俗歌に合わせ横笛と太鼓が奏され、…」という記録もあるという。大神楽の舞は、同じ伊那市羽広の獅子舞と同じである。獅子舞を訪れたのはもう20年以上前のこと。写真にも写っている茅葺の舞台が、今も残っている。

 獅子舞の撮影 昭和62年4月29日
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