Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

水槽で蛍を飼う

2006-05-16 07:37:22 | 自然から学ぶ
 先日新聞に「水槽の魚から湖の環境考えないで」というサイエンス記事があった。水槽と湖の環境は異なるもので、水槽は強制的に浄化しないと魚が住めないが、湖は違うということを説いていた。湖なら汚濁の進んだ湖の方が魚の量は多いという。狭い空間で、一定の魚だけを住まわせていることじたいが強制的なんだから、強制的な浄化があって当然なのだろう。しかし、そうした空間に慣れてしまって湖も浄化が進むほどによいとは限らないということを教えてくれている。

 自然空間は人に見える生物もいれば見難い、あるいは見えていない生物もいる。そして美しく優雅なものはどうしても目立つ。自然界においては目立つと外敵に狙われるということもあって、自然界に同化させて生きている生物が多い。しかし、自然界を人工的にいじってきた人の目には、目立つものが「良いもの」という認識がどこかにある。「水が澄んでいるほどによい」という意識も、結局は見た目なのだ。確かに見た目だけではなく水質の浄化を示す数値はさまざまに設定されているが、一般人にとっては、見た目が第一、そして現実の数値も必要、ということになる。

 「蛍が飛べば良い空間」、だから蛍を呼び戻そうという発想も、そうした考えと変わりはしない。しかし、「ちょっと待てよ」と考えなくてはならないのは、蛍が飛ぶ空間には蛍だけいるわけではない。「多様」という言葉がこれほどまでに広まっても、相変わらずひとつを目指している人間の性なのかもしれないが、蛍が飛ぶ空間は、グッピーの泳ぐ水槽の中とは違うんだということをどこまでわかっているだろうか。どうしても環境を作ろうとしている人々と、それを目当てに見に行く人たち、そして迎える人たちは「人が集まる」ことに意識が片寄ってしまいがちである。「花を植えてきれいにしよう」とも共通する我々のまずい点なのかもしれない。
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座便器のもたらした変化

2006-05-15 08:17:36 | ひとから学ぶ
 〝わたしにとっての「便所」〟の第4章である。

 「オンナの身体論」において、日本女性の出産や月経が重くなっているといわれる要因として、かがむこと、しゃがむことをしなくなったことがあると、鈴木明子氏は説いた。男は大便はしゃがむものの、小便は立ったままする。それにくらべれば女性はどちらもしゃがむわけで、男性に比較すれば日常で否応なくしゃがむ回数は増える。和式といわれる便器は、しゃがむことで用を足すわけだ。その和式便器は世の中からどんどんなくなっている。当たり前のようにしゃがむ必要性が減少する。

 和式というからしゃがんでする便器の形が日本式なのかと錯覚を覚えるが、ヨーロッパでもしゃがむ姿勢の便器は一般的だったようで、フランスではしゃがむ形式の便器が多いという。紀元前1370年のエジプトの便器は腰掛ける形のおまるだったという。ずいぶん昔のことでありながら、今でもそう形式がかわっていないことに、生理的現象であって、それほど人に見せるようなものではない影の世界は、大きく変化していないということを改めて認識させられたりする。

 そんな和式便器はあくまでも男にとっては大便専用だし、女性にとっては両用である。しかし、水洗化が当たり前になるとともに、世の中からは便座式の洋式トイレというものに変化してきた。加えて便座式の方が身体には負担が少ない、あるいは痔にならないなんていう情報が与えられて、それを日本では受け入れてきた。このへんの変化のニュアンスがなかなか個人差があっておもしろいと思うのだが、あまり触れられていない。ホテルはもちろん、個人住宅のトイレにおいても水洗化されることによって、便器は従来の和式のように、大便用と小便用という分離式ではなく、便座式の便器がひとつだけ置かれるようになった。便座式の便器は、大も小も兼ねられるという利点はあったのかもしれない。狭い住宅事情という日本特有の環境は、トイレのスペースを縮小するには洋式は都合よかったこともある。

 ところが便座式のトイレで立小便をするというのは、それまでの分離型のトイレに慣れていると大変抵抗があるものだ。前にも述べたが、男にとっては立小便は気持ちのよいものだ。ところが、立小便の場合は、とりあえず便器の方を向きさえすれば、少しは便器の手前へしずくを落とすことはあっても、いいかげんでも便器が小便を受け止めてくれる。ところが便座式の便器で立小便をするとなると、そんないいかげんな足しかたでは、小便を受け止めてくれないからだ。しっかり便器の穴へ向けて用を足さないと大変なことになってしまう。飲み屋かなんかで酔っぱらいが便座式で立小便などしていたら、そのトイレに入って大便などいささかしたくなくなる。もちろん、女性と男性が共用だったら女性にとってはかなりつらい空間となってしまうだろう。こんな話を友人ともしたことはないし、他人ともしたことはない。しかしながら、和式から洋式、分離型から共用型という流れの中では、誰しもそんな戸惑いを持ったはずである。初めて便座式トイレへ入ったとき、どうやって小便をするのかわからなくてあきらめた覚えがあるのはわたしだけだろうか。これからの子どもたちはどうも思わないかもしれないが、かつてを知っているものほどその違和感は持って当然である。

 このごろの若い人たちは、男性も便座に座って小便をするという。そうなる布石はさまざまにあったのだろう。共用することになったことも要因であるだろうし、若い男性(もうずいぶん前からだから、若くなくてもそういう男性はいるが)には、小便をするにもズボンのベルトを緩めて用を足す者が多い。いわゆる「社会の窓」を使わないのだ。わざわざそういう若い人たちに問いただしたことはないが、彼らにとって、便座式のトイレで小便をする方法はどうなのか、そしてもしそこで立小便をするとすればどう思うか、そこが微妙なのだ。

 わたしは自宅を新築する際に、水洗トイレを設置するにあたり、やはりスペースを省くためにトイレは一室と考えた。ところがわたしも便座式のトイレは小便がしにくいし、衛生上も芳しくないと思っていたし、それをもっと強く感じる妻は、共用に対して抵抗があったようだ。そこで、一室ではあるが、そのひとつの空間に便座式と小便用の便器を並べたわけである。さて、会社のトイレも各階に備え付けられたトイレは一室に便座式の便器がひとつ置かれている。気分的なものなのだが、わたしはそのトイレをあまり使いたくない。だから小便専用トイレへ向かう。「立小便は連れションが気持ちいい」なんていう言葉をよく若いころに言ったが、小便の風景というものは独特な世界があったように思う。もちろん男性だけに許された特権のように。ところが、男性が便座に座って小便をするようになってしまっては、かつてのそんな独特な世界は消えてしまう。生理現象だけに、環境に左右されるとなるとストレスがたまる。そう思うのだが、かなりくだらないことなのだろうか。

 写真は北佐久郡望月町(現佐久市)で撮影したもので、古い便所である。この地でとれる鉄平石を利用していてるところが特徴的である。

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  第1章「わたしにとっての〝便所〟
  第2章「用を足したくなる環境
  第3章「用便後に尻を拭く
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児童の体力低下について

2006-05-14 08:54:22 | つぶやき
 「運動離れ 待ったを」という新聞記事があって、長野県内の児童の体力低下が問題視されていた。それらは運動不足を要因としており、記事では子どもを取り巻く環境の変化を問題視している。その変化とは、集団下校による統制や、犯罪などに対する不安から放課後の時間規制、過ごす空間として安全な児童館への期待度などであり、結局はさまざまな子どもたちを取り巻く事件を背景として、「安全」への配慮がそうした変化を招いているとしている。そうはいってもそれだけではないだろう。そうした変化は長野県に限られたことではないからだ。

 息子の中学、そして地域を見る限り、運動不足というよりは運動しすぎという感が否めない。しかし、必ずしも基本の上にたった運動がされているわけではなく、部活をみていてもろくに準備運動もせずにいきなり競技を始めたりしているから怪我をしたり、どこか身体に違和感を覚えたりする。指導する側がどう指導してるか知らないが、息子を見る限りまともな部活動とは思えない。時間はたくさんしていても体力がついているようにもみえない。短時間に集中的に身体を動かすということができない。そういう部分も小学生のころからの運動の仕方に問題があるのか、あるいは指導方法に問題があるのか、常に観察しているわけではないから解らない。

 かつては田舎は、おおかたの子どもたちが農家だった。だから、農作業にしても何にしても身体をよく動かしただろう。もちろん学校へ送り迎えをするなんていうことはなかった。何より田舎の空間でも子どもたちの姿がなくなった。学校から帰宅するともう外に出てこない。家の中で何をやっているかは、だいたい予想がつく。ふだん家の中にいるのに、社会体育などのクラブ活動には盛んに参加して競技だけはする。基本的な身体を動かすことができないのだ。

 身体を動かす量や内容によって「一人前の基準」があったかつてとは異なり、必ずしも働く量によって価値判断されなくなった。ようは大人の世界であっても、仕事の量を測る基準が身体の動きではなくなった。世の中が統一した方向性を持っていた時代には、大人も子どもも意識せずに当たり前のことが身についていき、意識もある程度共通であったように思う。それが崩れている以上、子どもたちが常識外れだと大人が言っても致し方ない。加えて、クラブ活動をして例えば昼食を持参してもコンビに弁当だったり、のどが渇いたといって自販機の世話になっているような状況では、単に「運動不足」だけを取り上げても問題の解決にならないと気がつく。常の生活そのものに課題があるということなのだ。
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視力回復への努力

2006-05-13 10:46:42 | つぶやき
 息子にとっては、視力回復への努力は長いこと続いている。初めて視力が低下していることを知ったのは、小学校に入って間もないころだった。学校の視力検査で医者に行ってください、といわれびっくりして医者に行った時から始まる。医者では「直らないからメガネをかけてください」とストレートに言われた。自分もメガネをかけているが、あまり小さいうちからメガネをかけるとさらに視力低下を起こすという先入観もあって、そんなことを質問してみたが医者はおかまいなく「それはそれぞれの考え方ですから」と冷たく返された。ようはすぐにでもメガネをかけた方が子どものためになる、ということを言いたいのだ察知したものだ。ちょうど学校での視力検査が終わったころなのだろう、医者には子どもたちがあふれていた。息子の学校からは20キロ以上離れた眼科だったにもかかわらず、同じ学校に通う子どもの姿を見るほどで、世の中目の悪い子どもたちが多いんだと認識した場面であった。

 母の友人にもそうした子どもたちがいて、そんな現実をどう打開すればよいのだろうと相談していたようだった。そんななかで視力回復への努力をしてみる、という結論にいたり、とりあえずメガネはかけず、学校では前の席に座らせてもらうというような配慮をしてもらった。それからつづく視力回復への道だから、もう8年以上になるだろうか。

 もちろん今も回復はせず、むしろ低下した視力ではさまざまな支障もあるということで、中学に入ってからはメガネをかけるようになった。その判断が悪かったのかどうかはなかなか難しい。もともと目には難点があった。まつげが長かったのかあるいはカールが目の方に向かっていたせいなのか、ものを見難いというしぐさがあった。それが姿勢に影響してくるのだろうか、前かがみになる。字を読むにも見えないわけではないのだろうに目を近づける。そうした慣れが身についてから第三者に指摘してもらっても我々の努力が否定されるだけだから、そうした第三者の声は聞かないことにしている。メガネを購入する際に眼鏡屋さんに「目を近づけるということは姿勢にも影響するし、親御さんがメガネをかけさせたくない、という気持ちがむしろ視力低下に拍車をかけている」というようなことを言われ、正直いって応えた。そうかもしれないが、結果だけみてしまうと情けなくなってしまう。だから何を言われようと耳に栓をするしかないのだ。

 まず当初は視力回復センターなるものに通った。長野県内にはなく、豊橋まで何回か出向いた。視力回復を兼ねた小旅行のようなものになっていった。息子がお城が好きだったということもあってそのころ豊橋城や岡崎城、小牧城なんかを訪れた。お城とくれば戦国時代だから、一般道を豊橋まで向かいながら長篠の古戦場も訪れた。そんなことでもしなければ、高い旅費をかけることへの抵抗は補えなかった。

 なかなか回復しないこともあって、母はさまざまな回復に効用のあるような機械も検討したりした。富山によい医者がいるということで問い合わせたが、15歳くらいになるまではダメだといわれ、とりあえずそこで勧められた回復用の機械はもう5年ほど前に購入した。今でも利用している機械はそれだけだ。確かに疲れた目を元に戻すような訓練には向いているのかもしれない。回復センターは息子には向いていないと気がつくと、回復訓練から治療に方針を変更した。世田谷の針治療の医者に通ったのも5年くらい前のことである。ほぼ1年近くの間、月に1度程度通ったものだ。公共の交通を使っても行けないわけではなかったが、場合によっては日帰りもできないというなかで、常に自家用車での通院であったから、1回行ってくると治療費と旅費で2万円以上という負担であった。予約をとって行くというなかでなかなか都合がつかなくなってその通院も途絶えた。今はあきらめているというのが現実ではあるが、さらなる視力低下をさせないために、機械による訓練は続けている。まもなく15歳ということで、今年は最後の期待をかけて富山まで行くという話をしている。

 結局努力はしてもダメだったという話はあちこちで聞く。息子の場合も同様の結果かもしれない。そして努力は無駄なことであったと、結果は示しているのかもしれないが、何もしないよりは努力しての結果だから納得はしている。初めて医者に通った際に言われたように、「いろいろしてもダメだからメガネをかけなさい」に従ってしまうことへの抵抗が今につながっている。では眼科は何のためにあるんだ、と言いたいほどではある。日本では視力回復に向けた手術は行なわれていないのだろう。いやできるとしても保険治療ではないのだろう。眼科はどこへいっても盛況だというが、こと近視にかかわって眼科を訪れることほどむなしいことはない。

 パソコンの普及によって視力の悪化が現実味を帯びている。どんなにそんな環境にあっても悪くならない人は悪くならないようだ。どういう資質があれば低下しないのか、知りたいものだ。
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水に対する意識

2006-05-12 08:11:18 | 歴史から学ぶ
 ふたたび『信濃』最新号(675)の論文から興味深い話をひとつ。「高冷地をめぐる諸問題、土地利用の戦後史」と題した吉田隆彦氏の記事に、飲料水にかかわる意外なる事実が述べられている。現行水道法によれば、私・公営の別なくすべての水道施設を持つ飲料水供給者に施設と水質の厳格な検査と給水量の報告を義務付けている。そして公営水道の給水量をみた場合、給水人口に対する年間必要水量と実際に給水した量の比率が1.0であれば計画給水量と実際の給水量が同じだったということになる。いくつかの市町村の公営水道のそうした比率をとりあげた表をみるかぎり、0.71から1.35の範囲に入っている。もっとも大きなものでも軽井沢町営水道の1.35である。もっとも大きいということはどういうことかというと、計画に対して実際が多ければこの数字が1.0を上回ってくる。したがって軽井沢町の1.35という数字は、計画量に比して実際の使用量が若干多いわけで、軽井沢町という立地が影響している、ということをまず認識しておいて次の例に入りたい。

 公営とは異なり観光地の簡易水道の給水状況を同様に必要水量と実際の給水量で比率にした表が添付されている。それによると、さきほどの公営水道の数字とは明らかに違う数字が現れるのだ。ここで必要水量の算定が正しいかどうかということは別としてみれば、その数字は1.02というきわめて1.0に近いものもあるが、ほとんどが2桁以上の数字を見せる。そして大きなものは250とか400という数字になる。まるで水道管が漏水しているのではないかというほどの数字である。400.7を示したのは黒姫高原別荘地で、250を示したのは蓼科高原別荘地である。これらは簡易水道ということから、開発業者がそれぞれ井戸を掘って水源にしているもののようで、公営水道から分けてもらっているものではない。

 吉田氏はさらに、公営簡易水道から給水している別荘地の給水状況を別の一覧としてあげており、それによると、数字は前者の例にくらべると3.19から73.6と小さい。そのうちの73.6という数字を示した山ノ内町志賀高原のものは、特殊事例のようで、それ以外のものはほぼ1桁代の数字を見せる。この公営簡易水道がなぜ数字が小さいかというところを、次のように説明している。立科町の白樺湖などの水道は、その用水源とされる地域は川西土地改良区連合の支配下にあって、用水開発に携わった黒澤嘉兵衛や六川長三郎という歴史上の人物の権威によって封建的な水利用の掟が継承されてきたわけである。そうした封建的な掟は、井戸掘削などの乱開発を抑えてきたわけだ。ようは、水利用にたいしての農民のシビアな感覚が、こうした別荘地あるいは観光地の水源を守ってきたということになるのだろう。そのいっぽうで山を隔てた茅野市側では大河原事件(1963年)を発端として、水理紛争が起き、井戸掘削が無秩序に行なわれてきたようだ。八ヶ岳をはさんで南側は、水利用が計画に対して異常に多く、北側は計画に対して若干多いという結果を表したのだ。

 ここで、農民の水利用に対する異常なまでの意識が、「水」というものの環境を守ってきたことに気がつかされたことと、別荘地においては節水などという言葉はなく、無限に使われているのだということがわかった。長野県という自然豊富な地域が、都会人の、あるいは金持ちによって巣くわれることのないようにと願うばかりだ。
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医師不足問題から

2006-05-11 08:10:15 | 農村環境
 産婦人科の医師不足があちこちで話題になっている。先日行なわれた地元の自治会の行政懇談会の場でも、町にある病院の産婦人科が休止という事態に陥り、医師を確保するようにと町側が問い詰められていた。「全国的に不足していてこの町だけなんとかというのも・・・」という町の職員の言葉は、本心で出た言葉だろう。そのくらい厳しい状況のようだ。そこへ、「この町の病院だけでもなんとか・・・」とまた責められていたが、それができれば行政は評価されるのだろうか。いや、評価はされるのかもしれないが、果たしてそんなことでよいのだろうか。

 医師の厳しい勤務状態に加えてそれなりの報酬がないとなれば、産科医師のなり手がなくなるのも当たり前ではある。加えて昔のように「先生」といって崇められるほど、医師の価値を地域が認めていないような気もする。朝日新聞5/8朝刊では、「奪われるお産の場」と題して産科の医師不足の問題を取り上げ、同日の信濃毎日新聞においても「医師獲得へ動き活発」という記事が扱われている。地域においては産科ばかりではなく、これからはそれ以外の医師不足があちこちで話題になって不思議ではない。そして、医師獲得に向けた争奪戦となる。結局「自分のところだけは・・・」という意識が働くだろうし、金があるところが争奪戦に勝つことができる、そんな気がする。ということは、もともと地方には医師が少なく、場合によっては無医村なんていうものもあったが、今は合併が進んで無医村という村も減少して目立たなくなっている。しかし、現実的には地方から医師が減り続けるのは自然の成り行きとなっていくだろう。

 団塊世代を地方で受け入れようとしても、医師がいないようなところに、継続的に住んでいくことができるとはとうてい考えられない。世は少子化少子化と騒ぎ始めたが、騒ぎ始めた途端に産科の医師不足という問題が全国的に湧き上がっている。これこそ「滑稽な物語」である。

 息子は飯田市立病院で生まれた。当時の担当の先生が今も飯田下伊那地域のリーダー的存在だ。その先生の息子と飯田のサークルで一緒だった息子は、先日久しぶりにそのサークルでその子と会った。きっと医師になるためなのだろう、中学進学と同時に親元を離れて佐久地方の中学に進んだと言う。しっかりとした意図をもってがんばっている子どもたちを見ながら、かつてのように医師の子どもは医師に、という継続がまずあって欲しいと願うばかりだ。そう、まずは地域から医師を育てる。必ずしも帰ってきてくれるとは限らないが、遠いようでそれが近道だろう。
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用便後に尻を拭く

2006-05-10 07:54:49 | ひとから学ぶ
 〝わたしにとっての「便所」〝の第3章である。

 〝わたしにとっての「便所」〟において、野糞に触れて大便をしたあとに葉っぱで拭く話をした。わたしの子どものころ、30年ほど前の便所には、ちり紙というものはまだなく、新聞紙をちょうどティッシュペーパー程度に切断した紙が置かれていた。新聞紙はけっこう大便所に落としてもそれなりに解けたのか、あるいはそれほど紙を使わなかったのか、落とすことは許されていた。便所から汲み取って肥料にする際に、まだ新聞と解る姿であったことを覚えている。そののちちり紙を置くようになったが、そのころのちり紙というやつは、今のようなティッシュペーパーのように柔らかくはなかったが、新聞紙に比較すれば格段と改善された尻の感触であった。ところが、わたしの場合きれい好きだったせいか、拭いても何もつかなくなるまで何度も紙を使ったため、母に「紙をたくさん使うな」と戒められたものである。そのうちに肥料としては使わず、汲み取り業者に引き取ってもらうようになると、紙を多用すると便所がすぐにいっぱいになってしまうといって、使った紙は備え付けの箱に入れるように母に指導されたものだ。そうすることによって、汲み取り料を節約しようとしたもので、なかなか考えたものではあるが、あまり気の進むことではなかった。

 民俗学者、向山雅重先生の著書にこのお尻を拭く道具のことが書かれている。『伊那』昭和45年4月号に書かれた「ヨウトギ」には、なかなか興味深いことが書かれている。清内路村の方から聞いたところによると、下肥を背負い桶へ入れてセータ(背負板)で運ぶ際、山坂を歩くからなるべく水気を少なくしたかったという。そのために小便と大便は区別することを考えたわけだ。そうするには、もちろん小便と大便は別の溜めに入れるのだろうが、女性も男性用のいわゆる小便器で小便をしたというのである。女性の先生が宿を借りていたとき、「先生すまないが、小便と大便を区別しておくんなよ」と言われたというのである。以前「オンナの身体論」において、女性の立ち小便のことに触れた。「質疑のなかで、トイレの話が出て、かつては女性が立小便をしたというが、そうなると、トイレで必ずしもしゃがんでいたとは限らなくなる。その辺も含めて検討の余地はある。」と述べた。清内路の事例から導けば、小便と大便を区別するために女性の立ち小便が生まれたとも考えられる。年寄りがかがむのが大変だからといって立ち小便をするのではなく、下肥から水分を減らすためにしたわけだ。そうはいっても実家の母が座るのがつらいといって、このごろ立ち小便をするようになった現実を見る限り、そればかりでもないとは、少し思うわけだ。

 さて、向山先生書かれた「ヨウトギ」とは何かということになる。ヨウトギとは、大便の後始末をする木片のことである。ようは紙のかわりである。昔は紙などというものはなかったから、木を使ったわけである。栂や樅の木のマサを5寸ほどに切り、薄く割って使ったわけだ。表で拭き、次には裏で拭く。これを箱に入れておき、たまると「ヨウトギ、捨てに入ってこい」と言われてナギへ行って捨ててくるというのである。ここでいうナギとは、もちろん崩れている崖のことである。「ゴミのはなし」でも崖に捨てる行為について触れたが、やはり崖は捨てる空間であっことをここでも知ることができる。そして、ヨウトギが紙に変わっても紙を便つぼに落とされると下肥としては邪魔だといって、「紙は便所に落とさないでください」と張り紙をすることになったわけである。

 清内路ではヨウトギといったが、上村(現飯田市)ではステギとかステンボウといった。このステンボウという呼び方はけっこう一般的だったようだ。さらにステンボウ以前には、藁を吊っておいてそれを端から使っていった、などという伝承もある。もちろん野に出れば葉っぱを使ったもので、向山先生の『続山ぶどう』の「ステンボウ」には、「ふきの葉、イタドリの葉なんぞは、山へでも行ったとき、まことに具合よかった」と泰阜村栃城で聞いた話が書かれている。

 今ではトイレットペーパーが当たり前のように使われているが、日本のトイレットペーパーの品質は高いといわれる。紙が日常的に身の回りに出現したのは新聞の購読に始まるのだろう。新聞を購読しなければこんなに紙は氾濫しなかった。それがヨウトギやステンボウをなくした。いや、食生活が変わることにより、かつてのヨウトギやステンボウでは用は足せなくなったかもしれない。だから紙が登場したから用便に使われるようになったという見方もあるだろうが、軟便になれば必然的に木片は消える運命だったのかもしれない。

 余談であるが、中国ではかつて木片であとを拭いたといい、その木片を袋に入れて持ち歩いたという。また、インドでは用弁後、尻を高くしてこれに水をかけて指でこすったという。乾燥した地域では何分間か尻を乾かしているだけで何も使わなかったともいう。動物が尻を拭かないことを思えば、人間の用便始末は多様でおもしろいものだ。

 …続く
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大柄な娘の雪形

2006-05-09 08:01:58 | 自然から学ぶ


 「島田娘」について先日触れたが、わたしは連休中の間、女性の姿を現す雪形を毎日自宅から見ていた。写真は中央アルプスの赤椰岳あたりを写している。中央左手の嶺がその山で、左端が南駒ケ岳、右端は空木岳になる。赤椰岳の右手の山の肌にそれこそ島田娘と同じような女性の姿が見え、上体から下体に和服姿のように見える。この雪形をなんと呼んでいるのか聞いたことがなく、加えて少し資料でひも解いてみても出てこない。この山肌は南向きのため、雪解けが早い。おそらく数日で姿を消してしまうかもしれない。加えて伊那谷は南北に展開していることもあり、南向きの山肌となると、正面からやや左手に傾いた斜面になる。したがって見える範囲は島田娘のように広範囲とはならない。

 この写真は上下伊那郡の境あたりから撮影したもので、下伊那郡松川町上片桐あたりが真正面となる。ここから北へ向かって移動していくと、しだいに女性の姿は棒状に縦長に変化していき、上伊那郡飯島町七久保のJR七久保駅あたりまでくると、島田頭の姿はほとんど崩れてしまう。そして、さらに北へ向かうと、写真のような女性の雪形はまったく姿を消してしまうのだ。そんなこともあってか、雪形として農事暦に登場することがないのだろう。そうはいってもこれだけの形を見せているのだから、何らかの伝承もあるのではないかと思う。もう少し調べてみることにする。

 いずれにしても雪形は現れる斜面の位置によって少し位置を変えるとまったく姿を消してしまうと、「島田娘」でも述べた。その典型的な雪形が今回の「大柄な娘」の雪形である。南駒ケ岳から空木岳にかけての嶺嶺には、西駒ケ岳一帯に比較すると雪形の数が多い。それだけ「山の表情が豊か」ともいえるのだろう。この娘の姿が消えたころには、「日々を描く」でも紹介しているような「稗蒔き女」や「五人坊主」が現れる。しばらは山の表情の変化を楽しめる季節である。ところで例年なら連休には稗蒔き女や五人坊主は姿を見せ始めているのだが、今年は残雪が多い、そんな印象は強い。

 撮影 2006.5.6 AM
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家庭での食事を幸せと思えるか

2006-05-08 08:09:37 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞5/5朝刊に子どもの日ということもあったのだろうか、「深夜の店舗に親子連れ」という記事が見えた。ようは、深夜に小さな子どもを連れてゲームセンターやカラオケといったところへ出かける家族が目立つというものだ。そうした現実に対して、成長期にある子どもにとって昼夜のきちんと分けられない生活は好ましくないと添えられる。当たり前といえば当たり前な指摘である。子どもの生活に合わせるのではなく、大人の生活に合わせている現実が、そうした問題を抱えるということになる。

 いったい深夜に子どもが出歩いていて本当に問題があるのか、具体的には示されない。深夜に出歩いていた子どもが「切れる」と数字で示されているわけでもないし、殺人を犯す子どもがそうした環境に必ずあるわけでもないだろう。雰囲気として良くないといわれている程度であって、あくまでも理想に対しての理由づけという感じはする。そしてわかっていても、親子が触れ合う方法としてそれしかないとなれば致し方ないともみえる。記事で触れられているが、「ひと昔前は大人が子どもに合わせていた」という見方は、必ずしも正しくない。むしろ子どもは大人に合わせていた部分もおおいにある。しかし、その当時は大人が深夜に出歩くなどということがなかった。

 具体的な事実はなくとも、深夜に子どもが起きている、あるいは出歩いているということが、問題があるということを認識することも必要なのだろう。しかし、葛藤しながらも現実的には親は自らを優先せざるをえない環境もあるだろうし、それを回避するだけの精神的な強さも今の親にはないのかもしれない。偉そうなことをいっても自分もそうなのかもしれないからだ。基本的なわたしの考え方として、食べるものは身近なもの、そして出歩かない、そんな暮らしができれば理想かもしれない。事故にも事件にも、そして外敵に狙われることも少なくなるだろう。出歩けば出歩くほどに悲惨な事故に遭遇する可能性は高まる。だからといって、必ずしもそうなるともいえない。偶発的なものなのだ。そんな確率の世界にとらわれて、自らが小さく生きてしまうことを誰も望まないだろう。そんな確率の世界の話に照らし合わせてみれば、子どもが深夜に親と出歩くことの問題性の確率が、いかに自らに関わってくるかなどということにとらわれているのも不思議なのかもしれない。しかし、そうはいってもその確率を低くするにはどうするか、人間である以上は考えなくてはならない。

 事件事故の理由付けとして社会問題が取り上げられるが、確かなる生き方をどう捉えるべきなのか、そんな常識もなくなりつつあるように思う。考えれば考えるほどにだ。ただ、そんな社会が事実で、そうした環境を作り出した大人に責任があり、それを補うだけの大人の視点は必要だろう。

 深夜に出歩くという姿も確かに憂えることだが、まだ小さなものもよくわかっていない幼児を連れて、たとえばディズニーランドに行くとか、遠出をするといった親が多くなった。自らの子どもではあるが、子どもにもいち人としての将来がある。何が今必要かという部分を、何か勘違いしている親が多いようにも思う。記事の最後に、「触れ合いを図るには、家で一緒に食卓を囲むなど、深夜の時間帯以外で時間を共有する努力も必要ではないか」という幼児教育の専門家のコメントでまとめている。今、もっとも失われていることが、自宅で自ら作った食事をみんなで食べることが「楽しい時間である」という意識が持てないことだ。社会も家庭も、そして食環境も、もっといえば人生そのもののすべてにかかわる問題の原点なのかもしれない。
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島田娘

2006-05-07 09:07:15 | 自然から学ぶ


 そろそろ山の雪解けが進み、雪形が見えるようになった。雪形については、わたしのHP「日々を描く」で触れているのでそれを参考にしてほしい。その中でも触れているが島田娘がか細いが姿を見せ始めた。写真の中央やや下よりに島田を結ったような女性の姿が見える。「日々を描く」の方の写真はコントラストがよく出るように白黒にしているが、この方がもっと雪解けが進んでいる。しかし、ここにあげた写真の方が、いかにも女性らしくて顔の下の上半身も和服に見えて厳かな雰囲気が出ている。ブログを書くようになって世の中に目を向けるようになったせいでもなだろうが、以前はもっと形がはっきりと現れてこないと島田娘を意識していなかった。だから、写真のような島田娘をじっくり眺めたこともなかった。

 「日々を描く」の方でも紹介しているが、宝剣岳の真下に駒形もかろうじて見えている。加えて島田娘の左側にも稗まき小僧らしき形が見えている。まだ腕を南にのばす姿はない。むしろ踊っているようか姿だ。別名「盆踊り娘」という名もあるようだが、まさしくそんなイメージでもあるが、いずれにしてもどちらもう少し雪解けしないとそれらしく見えない。

 雪形は、広範囲で見ることができることから農事暦として利用されることも多かった。確かに島田娘が出始めると、いよいよ苗代づくりである。田植えに向けた田ごしらえの最盛期となる。このごろは苗代を作らなくなったからそんな言われ方もしなくなっただろうし、自然の暦もあてにならなくなっているかもしれない。中央アルプスではもっとも著名な島田娘であるが、駒ヶ根市北割あたりから見る島田娘がもっとも大きく見えるし、正面にもなる。雪形は出る場所によって形がずいぶん変化するから、別の場所で見るとまったく違って見えてしまうなんていうこともある。そういう意味では島田娘は、比較的広範囲で見える雪形のひとつといえるだろう。そして、かなり雪解けが進んでも島田娘の形を認識することができる。そんな広範囲に、また長期間わたって姿を見せるというところが、親近感を与えている。

 撮影 2006.5.6 AM
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ゴミのはなし

2006-05-06 12:06:14 | 農村環境
 ポケニャンさんの「5月3日はゴミの日だそうだ」を読んでいて、ごみが捨てられている姿にご意見するほどまだまだこんな姿が実はあることを認識しなくてはならないことを思うとともに、実は昔にくらべればこんな姿は減ったということも忘れてはならない。ポケニャンさんも触れているように、崖のように見難い場所にはゴミが捨てられていることはよくある。とくにそういう風景は、山間地域に行くほどに目につく。そうしたゴミは、真新しいものも時にはあるが、だいたいが古いものであることが多い。いわゆる今のような環境問題がクローズアップされる以前の「昔の田舎」にはよくあった姿なのだ。その場所が捨てる人にとっての私有地なのか、はたまたまったくよその土地に捨てられているのか、そのへんの真偽ははっきりしない。しかし、そんなことはともかくとして、山林や崖にモノを捨てるという意識がどういうものであったかも、考えなくてはならない部分ではある。

 長野県民俗の会は、平成15、16年と共通課題として「すてる・もどす」をテーマとしていた。そのテーマの意図や平成16年に行なわれたシンポジウムでの示唆などは、同会の「長野県民俗の会会報」や「長野県民俗の会通信」にいくつもの論文が掲載されているので、それを参考にされたいが、そこで議論された、あるいは述べられた内容から次のようなことを思うわけだ。

 ①崖もわざわざ人が見ようとする場所ではないから、対岸から見る意外はゴミが捨てられていることに気がつかない。そういう意味では崖ではなくとも、「竹藪」のように藪の中はまさしく人目にはつかない場所である。竹藪について巻山圭一氏は、「野と藪のトポグラフィー」において飯島町七久保における髪の毛や爪を竹やぶに捨てる事例から、「捨てる場所に困るようなものを竹やぶに捨てる行為から、仕方なく捨てる空間として竹やぶがあったのではないか」と述べた。この場合の仕方なく捨てるモノは髪の毛や爪といった人にとってはどこか命のあるようなモノであって、一般ゴミとは異なる。しかし、わたしの記憶からも「竹やぶにはゴミ」という印象がどこかにある。見え難い場所である「崖」と竹やぶが同一なものとは思えないが、見えない場所に捨てる行為には変わりはないように思うのだ。

 ②冒頭でも述べたがゴミの定義だ。ゴミというものが今では当たり前のように日常排出され、加えてゴミ問題は日常の課題として頭を悩ませたりする。しかし、かつても同様であったわけでない。「捨てる」モノがどれだけあったのか、ということに絡んでくる。焼却ゴミとして排出する袋の中をのぞいてみれば、紙や生ゴミ、もちろん今ではそうした袋の中に自らの体の排出物である髪の毛や爪も加わる。生ゴミの多くは土に返された。かつては紙をそれほど使わなかった。少量の紙だから家で焼いた。ビニール類に至っては、現代のゴミといっても差し支えないだろう。かつて多く使われた缶詰などの缶は、確かにそこらの山に捨てられた。その原点には土に還るという意識があった。そう考えてみると、山へ捨てるという行為には、環境悪化に至るという意識はなく、土に還すのだという意識があったように思う。しだいにゴミが多用になって、もちろん土に還らないゴミが混ざってきた。しかし、それまでの意識を変えなければ、結局それまでどおりにゴミは捨てられていく。そんな流れであったように思う。ただし、実際はいつの時点かにはわかっていたのにもかかわらず、知っていてゴミを継続的に捨て続けたのだろう。その境がどこなのかということになるのだろうから、この先は本人の善意にかかわる。

 以上のような経過があったからこそ、かつて多かった田舎のゴミ捨て場が、今は減少したわけだ。結局モラルとしての意識と、そうはいっても捨てる場所(環境)がある田舎という空間との狭間で現実は起きている、そんな感じなのだろう。もちろん、田舎の人が捨てていると一概にはいえない。マチからやってきて捨てる人も皆無とはいえない。再生されるものは再生するという意識が高まるとともに、「ゴミ」というものはなくなっていくのだろう。世の中が環境を重視してそんな循環型社会を構築しよう、などという意識が高まるのだろうが、それは、今に始まったことではなく、「元来ゴミなどというものはなかった」というところを気づかなくてはならない。
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新聞をめくる

2006-05-05 08:40:25 | つぶやき
 明日は新聞が休みである。ふと新聞をめくっていって、テレビ欄が真ん中にあるとき、「なぜ今日のテレビ欄が右側で、明日のテレビ欄が左なんだ」と何も考えずに思ったりする。そんなことがよく子どものころにあった。その癖が残っているせいだろう、今もぼーっとしているとそんなことを思ったりする。でもそれは当たり前のことで、新聞を表紙からめくっていけば先のページに今日、あとのページに明日のテレビ欄があるのはごく普通だ。ところがなぜそんなことを思うか、ということになる。

 新聞の読み方というのも癖がある。購読はしていないが、スポーツ新聞を読む時には必ず表から読み始める。目的がスポーツ欄なのだから、表からスポーツ記事が並んでいれば当然表から開くのは普通だ。ところがわたしの場合、普通の新聞は裏から読み始める。読むというほどではなくとも、必ず裏から左に開いていく。従来の本というものはほとんど右へ開いていくのが普通なのに、なぜ新聞だけそんな開き方をするようになったか不思議で仕方ない。子どものころの新聞を読む目的が、まずテレビ欄、そしてスポーツ欄という具合だったから、そんな開き方が定着してしまったのだろう。だからテレビ中心に新聞を読むと、2日分が並んで掲載されているテレビ欄に違和感を覚えるようになってしまったのだろう。

 「そんなのおまえだけだ」といわれる仕方がないが、きっとほかにもそういう人はいるのではないだろうか。

 そんな意図で今日の新聞を開いてみると、明日が休日ということで最終ページ、いわゆる裏表紙は1面広告で、めくると「第一社会」面があって、右側(ひとつ前のページ)には「第二社会」面がある。「なんで」と疑問が湧いてしまう。社会面は左が優先ページになっている。なぜだろう。一般新聞の構成というのは不思議なもので、たとえば表紙にある記事に「関連記事○面」という表示があったりする。表紙は目次的な意味合いがあるといえばそれもわかるのだが、時には関連記事があちこちの面に分散していることもよくある。そして典型的な記事が大きな事件報道である。大々的に報じている面は必ず1面と裏表紙をめくった最終面である。そう考えれば新聞のトップはもちろん表紙だが、第2面はテレビ欄をのぞけば最終ページあるわけだ。そう考えれば社会性の高い記事を最優先に読む人は、表紙をざっと見通した後に、必ず裏返して裏表紙をめくっていく、そんな読み方をするのではないだろうか。「きっとわたしだけではない」、そう結論づけたい。
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コゴミ

2006-05-04 08:54:04 | ひとから学ぶ
 「山菜の季節」は継続中である。子どものころは気にもしなかった山菜だと書いたが、ゲテモノはけっこう食べても山菜はあまり注目しない伊那谷であったように記憶する。それは、前回にも紹介したヤマウドをあまり認識していなかったということもあるが、知るまで食べたこともない山菜にコゴミもあった。コゴミも北信の飯山に暮らしていたころに教わったものである。やはり会社の先輩に雪解けの栄村に連れていかれ、そこで大量のコゴミを採ったことがあった。肥料袋にいっぱいのコゴミを持ち帰り、味噌汁や天ぷらにしたものだ。こんなにたくさん出るものなのだとびっくりしたことと、こんな山菜は南信にはないんじゃないか、というのが感想であった。そんな話を南信でしてみると知っている人がいて、「伊那谷では食べるということをしないが、けっこう生えているんだ」という。わたしがそのことを気づいたころには、すでに伊那谷でもコゴミというものを認識している人が増え始めたころだった。実家の母もどこかで聞いたらしく、数株どこからか採ってきて、家の近くの用水路端に移植した。それからは時期になると実家でもコゴミを食べるようになった。

 飯山から飯田の事務所に異動して、高森町のある現場を訪れた際、その現場一帯一面に大量のコゴミがちょうど食べごろの状態で出始めていた。周辺には人家もあり、また果樹園もあったりと、けして人目のつかないところではない。いや、隣には幅の広い町道も開いている。ところがその生えている大量さは、栄村に先輩に連れられて行った姿をはるかに越えていた。その現場に数回訪れたが、そのコゴミを採る人の姿はなく、伊那谷ではこれを採って食べる人がいないということをつくづく認識したものだった。ある日このコゴミを何株も掘り出して、当時まだ購入したばかりの現在の宅地の端に移植した。その株は年々増えて、家を建てたころには土が肥えていたということもあるのだろうが、とても太いコゴミがたくさん生えるようになっていた。ところが妻は、このコゴミをわたしが採っても食べたくないというのである。それは、近隣が果樹園地帯ということで、消毒が舞ってくるようなところの山菜は食べたくないという理由なのだ。「いいよ自分で食べるから」といったものの、料理をするのは妻だったということもあって、結局自宅の庭に植えたコゴミを食べたのは一時的なものだった。そのコゴミは今は株も増えて、とても立派な姿を毎年見せている。しかし今も採って食べるとということはせず、夏場には草刈機で刈っている状態である。

 さて、そんなこともあって自宅のものでは嫌だという妻の要望に応えて、再度高森町の現場で株を掘り出して妻の実家の土手に数株移植した。もう10年ほど前のことだ。そのコゴミも増えて、今やたくさんの株となっている。写真はその妻の実家に出始めたコゴミである。昨日も食卓におひたしとして並んだが、わたしが満足するだけの量は十分採れるようになった。妻の実家に生えている場所は日陰の方ということで、比較的出始めるのは遅いと思うのだが、自宅のコゴミはまだまだ頭を見せていない。それだけ寒いのだろう。何十年かのち、果樹園がなくなり、環境が良くなり、加えて年老いて動けなくなるころには、自宅に植えたコゴミを食べるときが来るのだと思う。
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休廃止されたスキー場

2006-05-03 09:28:44 | ひとから学ぶ
 『信濃』最新号(675)に小山泰弘氏の「長野県における休廃止スキー場の実態とその後の植生変化」という論文がある。スキー場開発の小史から廃止後の植生実態はどうかという視点で記述されている。わたしはスキーをしない。かつて5年を県北の飯山で暮らしたものの、そんな環境がわたしからむしろスキーというものを遠ざけた。スキー観光というものの存在が、わたしにとっての暮らしにはマッチしなかったということもあるし、当時はスキー観光がピークで、その観光そのものに抵抗感のようなものもあった。だからこそ、スキー場のことには少なからず気をとめているし、現在の知事が力を入れるスキー王国NAGANO構築事業の考え方にも思うところはある。

 記事には廃止された、あるいは休止しているスキー場の一覧がある。あらためてスキー場の衰退を感じるのは、自分が知っている親近感のあったスキー場がその一覧に掲載されていることだ。飯山市の市街地からもっとも近いところにあった飯山国際は、わたしが飯山に暮らしていたころにはまだまだ賑やかなスキー場だった。数年前に休止している。信濃平も同じ年に休止している。記事にも触れられているが、人工降雪機の普及により、それまでなかった地域にもスキー場が開設された。スキー場のなかった佐久地方にもスキー場ができて、関東からもっとも近い長野県のスキー場となっている。集客が都会からということになれば、その入り口にあたる佐久や南信のスキー場はそこからさらに遠いスキー場に目的がない以上、そこで「とりあえずスキーを楽しむ」ことは実現できるわけだ。もちろん、人工雪と自然の雪は異なるし、自然に頼れるスキー場は広大なスペースを持つことができる。だから、それぞれの意味合いというものがあって存在しているものだろう。しかし、かつては「とりあえずスキーを楽しむ」にも、長野県なら奥まったところにあるスキー場まで足を伸ばすのが一般的であった。それが近いところでできるようになれば、当然そこに一般客は集まる。とくに家庭重視の価値観は、家族で行けるスキー場を有利にしたことは確かである。

 最近冬場にその近くを通ることはないが、南信の県境の近くにあるスキー場は、ゲレンデがかなり小さくても、土日ともなれば国道が渋滞するほどスキー客が訪れていた。それらは長野県内の客ではなく、多くは中京方面からの客であった。

 一覧には43施設が掲載されている。最終営業年をみると、最近年に休止したものばかりではなく、すでに閉鎖して30年、あるいは40年という施設もあげられている。昔に開業したスキー場は、リフト施設などない、こじんまりしたものも多かったのだろう。それが大規模なスキー場が開発されるに従い、自ずと閉鎖に追い込まれていったわけだ。もちろん、スキー観光がピークへ向かう途上には、そうした施設がニーズに合わなくなるのは当然のことである。かつて伊那谷でもっとも知名度の高かった宮田高原スキー場ですら、閉鎖してすでに20年近い。都会からやってくる「スキーを楽しむ」客は、近ければ雪道がなくて到達できるスキー場がもっとも求められる。そういう意味で、宮田高原スキー場は、そこまで到達する道路状況が、都会向きではなかった。中央自動車道から数分で到達できる駒ヶ根インター近くのスキー場や、伊那スキーリゾートなど、高速道路沿線のスキー場は、そうした立地を備えているといえるだろう。そして、名古屋市から1時間と少しで到達できる平谷スキー場や冶部坂高原スキー場のように、「近い」という立地は、小規模であっても一定のニーズにはまっているといえるのだろう。

 そんな意味で、南から到達するにもっとも奥まっている野沢温泉スキー場が、かなり厳しい状況にあるという報道もうなづけるわけだ。

 記事では休廃止後の植生回復状況に触れているが、大規模な面積を開発しているわけだから、回復が遅れることは当たり前のことだろう。そんななかで意図的に植樹する、あるいは回復させようという事業が行なわれているようだ。休廃止といっても時代によって、あるいは規模によってその造成規模はさまざまで一口には語れない。いずれにしても造成(土をどれだけうごかしたか)という判断によって回復には差が出るのだろう。今ならこれほどの多くのスキー場を開設するといえば、たくさんの反対があがるのかもしれない。そういう意味で開業しているスキー場は、どんなに赤字でもなんとか続いてほしいと思う気持ちが、さまざまな分野にあって当然だ。

 長野県内の観光客は、年に一億人近いという。国民が一年にほぼ一度は長野県を観光で訪れているという計算になる。そのうちの1割程度がスキー場利用者という。そう考えれば長野県にとっては大きな産業なのだろうが、「観光事業」というものにいまひとつ理解を示せない部分もある。記事の冒頭で、「長野県は、日本アルプスに代表される美しい自然、県下全域に点在する温泉、特色のある地域文化など、豊富な観光資源に恵まれている。」とあるが、「自然や地域文化が観光資源」といえるのかどうか、そしてそれを「有効利用する」ということがどういう意味を持つのか、単純な言い回しで捉えてしまっては問題が山積みされるだけだと思うし、それは本当なのかと疑問を感じるばかりである。
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イワツツジ満開

2006-05-02 08:20:16 | 自然から学ぶ


 「イワツツジの世界」で紹介したイワツツジがほぼ満開に近くなった。写真がそのイワツツジ帯である。裏山は檜林である。かつては芝刈り場で、近所の山のない人たちはここへ来てカリシキを採ったという。昔はこうした山へ誰でも入ってカリシキを採ることは許されたというが、なかにはよそ者が入ることを拒んで、山へ人糞を撒いた人もいたという。そういう家に限って大地主だったりした。今は檜を植えてしまったが、その檜を切ってははざ杭として利用したり、はざの掛け棒にしたりしている。近所でも檜をはざのナルに使っている家はない。

 イワツツジの下の平らには梅の木が植わっている。いつも採りきれないほど成るため、イワツツジの下草を刈ったときに上へ伸びている枝はことごとく剪定した。だいぶ新芽が出てきたため、せっかくのイワツツジがちょっと隠れているが、これでも剪定したから見やすくなっ方だ。また、その下の段は柿の木である。先日も息子が個人的に勉強を教わっている先生の家へ行った妻が、「先生の家の柿畑は草が1本もない」と驚いて帰ってきた。畑ならまだしも、樹園地の雑草をすべて除草するとなると並大抵なことではない。敬服するばかりだが、その先生夫妻が一昨日わたしの家を訪れた。妻はお土産にとアルストロメリアの株とシバザクラの株を分けていたが、庭の雑草を見られて不精をさらけ出してしまった。以前にも書いたことがあるが、これでも一生懸命草取りをしている方で、ご近所では生産性のないことをしているから「暇だ」と思われている。もちろんご近所は果樹園だらけだが、いまどき果樹園に草が1本もないようなところはない。もしあっても除草剤を撒きまくっている。草がないきれいな庭を目指すが、なかなか気の遠い話である。

 写真の左端から始まるイワツツジ帯は右端からもう少し続く。距離にして約50メートル近くだろうか。この集落に入る県道からよく見えるため、「あそこは公園かな」と聞かれるという。今冬に整備したおかげで、なかなか見栄えがするようになった。

 イワツツジは前回も書いたように正式にはミツバツツジという。雄しべの数が10本あるからミツバツツジの仲間のコバノミツバツツジのようだ。

 撮影 2006.4.30
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****