Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

弁当に合わないコシヒカリ

2006-05-28 09:13:24 | つぶやき
 常日ごろ食べている米は、妻の実家でわたしも手伝いながら実った米である。品種は〝秋晴れ〟というもので、ずいぶん昔に飯田下伊那で盛んに作られた米のようだ。今でもこの品種を作付けしている農家はけっこうあるようだ。世の中は美味い米を望むから、どこへ行ってもコシヒカリを作る。県内の平地農村はもちろん、山間部の棚田でもけっこうコシヒカリを作る。ただでさえ、○○の米は美味いといって自慢するほどだから、コシヒカリを作ってもけして自慢にはならない。それほどみんなが作っている。だからかつての品種を作っていると言ったら馬鹿にされるくらいかもしれない。なぜコシヒカリを作らないのかといえば、土に合わないからだ。妻の家では有機質が高い。肥えているからコシヒカリを作つけると倒れてしまうという。そうでなくとも、実るころに台風や大風が吹くと、稲は倒れる。倒れれば収量は減る。この時代だから、収量なんか少なくたって美味い米が食べたい、というのも一理あるが、倒れた米を収穫するのは骨が折れる。

 以前はわたしの実家の米を食べていたが、無農薬あるいは減農薬米を妻が目指すようになってからは、妻の家の米を食べるようになった。わたしの実家はコシヒカリやシナノコガネなどの品種を昔は作っていたが、今は何を作っているかは知らない。特別美味しいという覚えもない。もちろん妻の実家の米も美味しいという印象はないが、慣れてしまえば「こんなもの」という感じである。

 最近妻の実家の近くに住む叔母さんの家で作ったコシヒカリをいただいた。その米を炊いて食べてみると、確かに妻の実家の米より美味しいという印象はあった。だが、妻は「叔母さんちの米は除草剤たくさん使っているから」と皮肉る。その米を少しもらって赴任先へ持参した。そして弁当に詰めていくのだが、どうも炊き立てで食べた美味しさがない。弁当は保温式ではないし、いわゆる詰め込みタイプだから、なるべく押し込めないようにはしているが、少しは〝詰める〟という感じだ。そして食べる時は冷えている。この状態のコシヒカリは、粘り気があるせいか、米粒がくっついている。それを粘り気といってしまえば確かにそうなのだが、ネチャとした感じがして、いまいちだ。それまでの妻の実家の米に比較すると、見た目は美味しそうだが、口にすると粘り気がありすぎる。軽ーくふんわりと詰めればよいのかもしれないが、となると、詰められる量は限られる。美味しく食べたいならもう一工夫いるのだろう。そんなことを思いながら、次の日には軽ーく詰めたのだが、思うようにいかない。結局、弁当に詰める米は粘り気が少ない方がよいということになった。コシヒカリはあきらめて、今までどおり秋晴れを詰めることにした。

 どういう状態で食べるかによって、必ずしも美味い米が一番ではない、ということに気がついた。
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