Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

家庭での食事を幸せと思えるか

2006-05-08 08:09:37 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞5/5朝刊に子どもの日ということもあったのだろうか、「深夜の店舗に親子連れ」という記事が見えた。ようは、深夜に小さな子どもを連れてゲームセンターやカラオケといったところへ出かける家族が目立つというものだ。そうした現実に対して、成長期にある子どもにとって昼夜のきちんと分けられない生活は好ましくないと添えられる。当たり前といえば当たり前な指摘である。子どもの生活に合わせるのではなく、大人の生活に合わせている現実が、そうした問題を抱えるということになる。

 いったい深夜に子どもが出歩いていて本当に問題があるのか、具体的には示されない。深夜に出歩いていた子どもが「切れる」と数字で示されているわけでもないし、殺人を犯す子どもがそうした環境に必ずあるわけでもないだろう。雰囲気として良くないといわれている程度であって、あくまでも理想に対しての理由づけという感じはする。そしてわかっていても、親子が触れ合う方法としてそれしかないとなれば致し方ないともみえる。記事で触れられているが、「ひと昔前は大人が子どもに合わせていた」という見方は、必ずしも正しくない。むしろ子どもは大人に合わせていた部分もおおいにある。しかし、その当時は大人が深夜に出歩くなどということがなかった。

 具体的な事実はなくとも、深夜に子どもが起きている、あるいは出歩いているということが、問題があるということを認識することも必要なのだろう。しかし、葛藤しながらも現実的には親は自らを優先せざるをえない環境もあるだろうし、それを回避するだけの精神的な強さも今の親にはないのかもしれない。偉そうなことをいっても自分もそうなのかもしれないからだ。基本的なわたしの考え方として、食べるものは身近なもの、そして出歩かない、そんな暮らしができれば理想かもしれない。事故にも事件にも、そして外敵に狙われることも少なくなるだろう。出歩けば出歩くほどに悲惨な事故に遭遇する可能性は高まる。だからといって、必ずしもそうなるともいえない。偶発的なものなのだ。そんな確率の世界にとらわれて、自らが小さく生きてしまうことを誰も望まないだろう。そんな確率の世界の話に照らし合わせてみれば、子どもが深夜に親と出歩くことの問題性の確率が、いかに自らに関わってくるかなどということにとらわれているのも不思議なのかもしれない。しかし、そうはいってもその確率を低くするにはどうするか、人間である以上は考えなくてはならない。

 事件事故の理由付けとして社会問題が取り上げられるが、確かなる生き方をどう捉えるべきなのか、そんな常識もなくなりつつあるように思う。考えれば考えるほどにだ。ただ、そんな社会が事実で、そうした環境を作り出した大人に責任があり、それを補うだけの大人の視点は必要だろう。

 深夜に出歩くという姿も確かに憂えることだが、まだ小さなものもよくわかっていない幼児を連れて、たとえばディズニーランドに行くとか、遠出をするといった親が多くなった。自らの子どもではあるが、子どもにもいち人としての将来がある。何が今必要かという部分を、何か勘違いしている親が多いようにも思う。記事の最後に、「触れ合いを図るには、家で一緒に食卓を囲むなど、深夜の時間帯以外で時間を共有する努力も必要ではないか」という幼児教育の専門家のコメントでまとめている。今、もっとも失われていることが、自宅で自ら作った食事をみんなで食べることが「楽しい時間である」という意識が持てないことだ。社会も家庭も、そして食環境も、もっといえば人生そのもののすべてにかかわる問題の原点なのかもしれない。
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