Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

児童の体力低下について

2006-05-14 08:54:22 | つぶやき
 「運動離れ 待ったを」という新聞記事があって、長野県内の児童の体力低下が問題視されていた。それらは運動不足を要因としており、記事では子どもを取り巻く環境の変化を問題視している。その変化とは、集団下校による統制や、犯罪などに対する不安から放課後の時間規制、過ごす空間として安全な児童館への期待度などであり、結局はさまざまな子どもたちを取り巻く事件を背景として、「安全」への配慮がそうした変化を招いているとしている。そうはいってもそれだけではないだろう。そうした変化は長野県に限られたことではないからだ。

 息子の中学、そして地域を見る限り、運動不足というよりは運動しすぎという感が否めない。しかし、必ずしも基本の上にたった運動がされているわけではなく、部活をみていてもろくに準備運動もせずにいきなり競技を始めたりしているから怪我をしたり、どこか身体に違和感を覚えたりする。指導する側がどう指導してるか知らないが、息子を見る限りまともな部活動とは思えない。時間はたくさんしていても体力がついているようにもみえない。短時間に集中的に身体を動かすということができない。そういう部分も小学生のころからの運動の仕方に問題があるのか、あるいは指導方法に問題があるのか、常に観察しているわけではないから解らない。

 かつては田舎は、おおかたの子どもたちが農家だった。だから、農作業にしても何にしても身体をよく動かしただろう。もちろん学校へ送り迎えをするなんていうことはなかった。何より田舎の空間でも子どもたちの姿がなくなった。学校から帰宅するともう外に出てこない。家の中で何をやっているかは、だいたい予想がつく。ふだん家の中にいるのに、社会体育などのクラブ活動には盛んに参加して競技だけはする。基本的な身体を動かすことができないのだ。

 身体を動かす量や内容によって「一人前の基準」があったかつてとは異なり、必ずしも働く量によって価値判断されなくなった。ようは大人の世界であっても、仕事の量を測る基準が身体の動きではなくなった。世の中が統一した方向性を持っていた時代には、大人も子どもも意識せずに当たり前のことが身についていき、意識もある程度共通であったように思う。それが崩れている以上、子どもたちが常識外れだと大人が言っても致し方ない。加えて、クラブ活動をして例えば昼食を持参してもコンビに弁当だったり、のどが渇いたといって自販機の世話になっているような状況では、単に「運動不足」だけを取り上げても問題の解決にならないと気がつく。常の生活そのものに課題があるということなのだ。

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