Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

町民参加条例の記事に一言

2006-04-22 09:18:08 | ひとから学ぶ
 またもや信濃毎日新聞は、高森町の町民参加条例を取り上げて住民自治を問うている(4/19朝刊)。印象としてこの新聞は、住民自治というと必ず高森町を例にあげるが、ほかに具体例を示すような動きはないのか、あるいは違う視点はないのか、と常に「高森町」の名が見えると思う。そしてワンパターンのようにこの町に越してきて、自治会に未加入のある人物の言葉を掲載する。はた目には、まるでこの町にとってこの人物は厄介者のようにさえ聞こえる。わたしは住民ではないから、真偽は知らないが、いくらなんでも同じパターンで何度も新聞紙上を賑わせると、「この町の構図がパターン化して見える」。「横並び意識や上意下達の雰囲気」を感じて未加入というこの人物の気持ちは、何度もいうようによくわかる。しかし、田舎にこうした自治組織がなくなってしまったらどうなるのか、ということは考えないのだろうか。いや、考えたうえで、違う方法を模索しているのかもしれない。しかし、どんなに問題が山積みだとしても、長年築いてきた地域の社会生活(わたしは住民自治とはいわない)が無駄なものであった、みたいに否定されてしまっては、それまでその地域に生きて生活してきた者にとっては、やるせないものだ。問題はあっても、どうこれからの地域の社会生活を継続していくか、そういう視点で考えて欲しいと思う。

 隣接する町であり、わたしの住む町との対比もいくらか聞いたりする。どちらもどちらという部分もあれば、飯田市に隣接して新たなる住宅が増えているにもかかわらず、古いしきたりはわたしの町より強い、なんていうことも聞く。とくに学校にかかわる地域の考え方、あるいは地域の人々の考え方は、かなり今の子どもたちの視点には立てていないようなことも聞く。それでも、学校が努力しているせいなのか、バランスよくまとまりを見せている。しかし、ちょっとしたことから学校は荒れ、すると地域も荒れすさむこともある。それほど教育というものは地域の姿を見せるものだと思う。学校を見れば、その地域の環境が少なからず見て取れる、そんなことが実際ある。

 ポッケニャンドリさんのブログで、水道の布設のために各戸1人ずつ日曜日に賦役して、そんな生活が2年も続いたということを触れていた。若い人たちには耐え難い苦労、いや個人の自由を奪ったかもしれない。しかし、土木工事として発注すればお金もかかる。それを自分たちでやれば金はかからない。現実的には日曜日に賦役することのさまざまな苦労は、お金にも代えられないものだ、という意識もあるかもしれない。ただ、お金に換算する以上に、自分たちの地域を自分たちでかかわることで、地域は何らかの結びつきを持ったに違いない。必ずしもそうではない、という意見もあるだろうが、それは意見は意見として、地域はその意見を吸収するだけのふところを有すことも必要だ。昔なら、よそから来たものが声を出すなんていうことはできなかったし、有力者の一声でどうにでもなったのだろうが、そこが今は違うんだということを理解して、かつての助け合いのよさは採用していく。加えて、過度な賦役の負担を、どう負担ではないような方法で解決するか、そんな部分も必要なのだろう。

 だから自治会への未加入者が声を大にしたからどうというものではなく、加入してでもその問題を解決することは可能なはずなのに、「未加入」を象徴的に記述する、この新聞のやり方にわたしは「問題あり」と言いたいし、また、未加入のまま声をどんどん大きくして、さらには町議選にも何度も出るという目立ち方をするここに登場する人物も「問題あり」とはた目には感じられる。いずれにしても、もうこの新聞は、この事例を大々的にとりあげてほしくない、そう思う。
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