Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

用をたしたくなる環境

2006-04-26 08:11:05 | ひとから学ぶ
 〝わたしにとっての「便所」〝の第2章である。
 
 小便といえば立小便。当たり前といえばあたりまえで、立って用を足せば〝立ち小便〟だ。世の中から草むらがなくなれば、立ち小便もし難くなる。いや、今は荒地も多いから、その環境は必ずしも消えたとはいえない。しかし。かつてにくらべれば用を足せなくなったことは確かだ。加えて今は公衆トイレがけっこうあるし、さらにはコンビにへ行って用を足すなんていうことも普通に行なわれる。そのあたりの感覚である。前にも述べたように、かつては大便をしたくなれば、山の中に入ったり、草むらに行って用をたした。それがそれほど恥ずかしいことではなかった。同じように女性だって野で用を足すなんていうことは、致し方ないがあったはずだ。ところが、今はそういう感覚はそれほどない。とすれば、今のように男性も女性も関係なく仕事をこなすとなれば、女性と外回りの仕事をすると、どうしてもトイレのことを念頭に置かざるをえない。女性は女性で、トイレに頻繁に行くわけにもいかないから、必然的に我慢をするようになる。そしてそうした我慢に慣れてくる。

 以上から、用を足す環境というものもあるのだろう。かつては「野」でできたものができる環境もなく、しだいに「野」でするものではないものとなってきた。やたらなところでしたら訴えられそうでもある。大便はできれば自宅でしたい。そう思うのは、大便をする環境として自宅のトイレは最も優れている、ということもいえるだろう。水洗化された洋式のトイレは、明らかに快適になった。加えてウォシュレットの使いよさは、使い慣れてしまうと必需品となってしまう。いっぽうでそうした環境が整われる以前は、時には「自宅でするより外でする」なんていう意識の人も皆無ではなかった。それは、汚しても自分がきれいにする必要がないし、汲み取り式であれば、自宅ですればするほど汲み取り回数が多くなるわけだからだ。そんなケチな感覚で外で大便をする、なんていう認識は考えられないかもしれないが、ようは自宅の家庭ごみをコンビにのごみ箱に捨てるのと同じような感覚なのだ。会社でも公衆トイレでも朝方にトイレが「いっぱい」なんていう経験はないだろうか。自宅で用を足さなかった人たちが、そうしたトイレ事情を作り出したりする。必ずしも先ほどの〝よそのごみ箱へ〟という意識に限られるものではなく、朝の忙しい時間に用を足せなかった、という事情もあるのだろう。

 環境という観点でいけば、公衆トイレの場合このごろはきれいになったが、汚れていると使いたくない、という意識も芽生える。かつてのようにコンクリート剥き出しのトイレともなれば、足元が濡れていたりすると気分はよくない。もちろん汚れているトイレを開けると、隣に移動したくなる。そんなことは誰でもあることだろう。トイレに関するアンケートなんかをのぞいてみても、「きれいであること」、あるいは「明るくしてほしい」なんていうのはごく普通である。昔の公衆トイレには、トイレットペーパーが備え付けられていないなんていうことも、珍しいことではなかった。いや、意図的に付けてないトイレもあったように記憶する。結局、前にも述べたように、自宅でできるものをよそへ来て用を足す、なんていうことが横行するから、意図的に外で用を足すようなことを避けるための策であったのかもしれない。今では公衆トイレでペーパーが置いてないところなど滅多にお目にかからない。誰も使わないような公園のトイレや、田舎のトイレくらいかもしれない。

 イメージが第一という印象があるトイレ。かつての「野」も、今のトイレも、やはりその環境が快適さを決めるわけだ。女性の感覚はわからないが、今でも男性はトイレで立ち小便するよりも、「野」でする小便は開放的で気持ちがよいはずだ。それは男性だけの特権なのかもしれない。

 ・・・続く
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