Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

善光寺表参道

2006-04-27 08:15:57 | 歴史から学ぶ
 今勤務している長野市の会社の南側に幅5メートルほどの川がある。この川の名を八幡川という。この川は信濃毎日新聞社本社ビルの東側で南八幡川と北八幡川に分岐する。南八幡川は昭和通りを渡り栽松院の南を経て飲み屋が並ぶしまんりょ小路の北側を南東へ流れる。ふだん飲み屋へ、あるいは長野駅へ向かう人たちはこの南八幡川の上を歩いている。現在は川の多くが蓋でかぶっているため、川があるという意識は薄い。加えて、栽松院がその北側の昭和通りあたりより少し高い位置にあるなんていうことは、意識してみてみないと気がつかない。

 実はこの八幡川が流れるあたりは、現在は県庁の西側を南に流れている裾花川のかつての流路のあたりだという。江戸時代初期に松代藩の城代、花井吉成によって裾花川の流路が人工的に変えられたものだという。そして、流路の跡には新田が開発されたため、そこを新田というようになったわけで、現在も新田町として残っている。善光寺表参道は、長野駅の方向に向かって一定に下っているものだと思っていたが、かつての裾花川の名残りもあって、若干上下していることを知った。

 表参道としてかつて賑やかだった長野市の旧メイン通りも、今はずいぶん廃れている。その典型的なものが、飲み屋街としてしられて「いた」、あるいは「いる」権堂町の夜の姿である。わたしが長野に始めて暮らした30年近く前の権堂と今の権堂は明らかに賑やかさが違う。かろうじて飲み屋街の姿は現在にも残るが、夜権堂アーケードを歩いても、人通りは少ない。そんな姿だから、飲み屋がなくなっていっても当然なのだろう。長野市街地のマチは、明らかに姿を変え、加えて分散してしまって「長野」のマチをイメージさせるようなマチは、正直今はどこにも見ることができないのかもしれない。

 余談であるが、新田町の中心にある交差点は、善光寺表参道と県庁から東に向かう昭和通りが交差する位置にある。昭和29年に長野県で初めてスクランブル交差点とされた場所で、昭和47年に県内で初めて目の不自由な人のための電子演奏装置が設置されたのもこの場所だという。長野県の最先端であった交差点も、交差点のあった葉所にあったダイエーが撤退するなど、「マチの郊外化」の現実にさらされている。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****