Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

やたらに人の土地には入れない

2005-09-22 08:19:10 | 農村環境
 昨日、千曲市(旧更埴市)森に仕事に出た。森といえば杏で有名なところで、花の咲くころには大変な観光客でにぎわう。その杏園が続く果樹園地帯の中を流れる水路に用事があって行ったわけであるが、市道に車を止めて、果樹園の向こう側にある水路まで、樹園地内を歩いた。すると、隣の畑で働いている年のころ、70歳に近い方だろうか、「おまえたち人の土地に無断で入って非常識じゃないか」と叱られることとなった。樹園地の続きであるから、同じ土地の所有者であることはすぐにわかった。頭を下げてそこの水路の改修の話があって、確認に来たと説明したが、こちらの態度が気に入らなかったのか、一度怒りつけた流れがあったためか、怒りは収まらない。「最近の日本はだめだ。こんな非常識なやつらばっかで」と続ける。日本の堕落の原因はお前たちだ、なんていう言い方をされても、こちらは謝るしかなかった。
 確かに人の土地である。断って立ち入ることは必要だ。しかし、隣接地の水路の改修という、土地所有者にまったく関係のないことではないし、その水路までたどり着くための進入だったのだから、そこまで言わなくとも、「何の用事かな」と聞けばよいのに、あからさまにどなりつけられた。調査とか、あるいは測量などの業務における仕様書に、土地への立ち入りについては、土地所有者の了解を得ること、と明記されていることは確かであるが、水路とか道路という線ものにかかわると、その対象者は多い。ましてや、道路は公道であるから、人間が歩くことは不思議ではないが、水路となると、幅は狭いし、どこを流れているか探しながらいかないとわからない。水路上に個人の所有物が置かれ、まったくその所在がわからないこともある。それを探し出す経路も含めて、あらかじめ所有者を確認し、了解を得るという作業は並大抵なことではないし、そうした作業を発注側が計上しているとは、とても思えない。
 人の土地に入ったといって叱られたのは、今年は2度目である。長野市川中島において、やはり水路の改修にあたり調査をしていて、隣接する宅地に数メートル入ったとたんに家の中から窓越しに「非常識じゃないか」と若い主婦に激怒された。昔はこんなことはなかったが、最近はこんなことは日常的になってきた。もちろん、そうしたことがあるから、同じ場所にとどまって作業を行う(土地をいじったりするわけではない)時には、地権者に承諾を得るようにしている。以前飯田市山本で水晶山のてっぺんで作業するにあたり、その場所にかかわる土地の方に承諾を得ようとしたことがあった。山のてっぺんというのは、ときおり短冊状に所有者が分かれていることがあり、そのときも数人の関係者があったが、一人の方はわかったが、ほかの方の現住所、連絡場所がよくわからなかった。判明した方にそのことを話したところ、「わざわざごくろうさんだなん」「うちはもちろんいいが、その所有者はこのへんにおらんから、なかなか連絡つかんに。だいじょうぶたから・・・」。言葉に甘えて、とりあえず他の方には承諾をえなかった。承諾を得ておけば安心、という程度の作業だからと心の中では、自らを許すしかなかった。
 このように、努力はしている。それでも、急なことであったり、今回のようにただそこまで行くだけ、という時でもこんなことがあるから、けっこう気を使う。ただでさえもとの取れないような仕事で、時間をかけていたら自分の首を絞めることになる。だから、たとえば田んぼや畑の中にある水路などで作業するとき、そこで農作業をしている人たちと、あまり話したくなくなるのである。それは、いったん話し始めると、意図しないようなことまで話したり、人の悪口まで聞く羽目になって、こちらの作業が滞ってしまうからである。
 いずれにしても、田舎の耕作地においても、立ち入るということが、これほどまでに神経質になってしまったことに、住みにくい世の中の進行を予感する。仕事でなくとも、同じようなことを言われたことは何度かある。比較的農村地帯でも、よその人たちが住み着いてきた地域や、よそとの交流が激しい地域にそういう傾向は強い。今回の果樹園も、木は少なく、むしろ花の時期のための駐車場とされているような土地であった。確かに、時期ではないのにロープで囲ってあって、かなりよそ者に対して神経質な雰囲気がある土地だという印象は、叱られてから気がついた。農村部であるから、たまたまわずかな時間に通過して、その時に地権者と出くわすということじたいが、偶然的ではあるが、立ち入ったことは確かなのである。
 風景の写真を撮っている人たち、自然観察をしている人たち、山菜を採る人たち、そんな人たちにとって大変な世の中になっている。ましてや、法務局の公図で確認でもしてみないと、本当に個人の土地かどうかもわからない。公な土地だと思っていたって、個人のものであったり、個人のものと思っていても公の土地である、ということはよくある。住宅地のように、明らかに土地の境が見てとれるようなケースならともかく、今回のような場所で言われると、けっこうこたえるものである。
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3 コメント

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入場料が必要な時代。 (BLs)
2005-09-22 22:08:13
長野県のあるところの昆虫採集者のお話。

今から20年前の地権者

「どうぞ気をつけて採集しなさい。大きくなったら博士になるんだよ!」

つい最近の地権者(同一人物)

「なにしてるんだ!捕まえて売るんだろう!出て行け!」

だそうです。

少なくとも日本人の心の中が変わってしまったことは、、、確かです。

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なんともいえないが・・・ (trx_45)
2005-09-23 01:12:58
 子どものころ、あるいは若き時代に採集をしていたときと、大人になって、さまざまな人間関係を認識してからの採集のときと、採集者は同じだと思っていても、顔の表情、風貌は、対峙者には違って受け止められることは仕方がないことです。わたしもこの日記の中で、ちょっとしたしぐさや言葉から、さまざまに視点をおいて考えていますが、この事例のような体験を、時代の変化と片付けて物語化している部分もありますが、でも、人間は、それほど変化していない部分も持ち合わせているものです。コメントの話を、あらためて聞いて、自己に返して、安易にいろいろ語ってもいけないと、教えられます。でも、日記とは、自分の体験や、自分のふとした視点がたくさんそのときそのとき思うことで、積み重ねていき、自分の糧になるものですから、いろいろなコメントを自らに返して行きたいです。
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ひっかけました。 (BLs)
2005-09-25 00:28:53
実は、極端な例を書いただけです。

自然研究者や採集者に理解できる方々はいますし、とんでもない採集者や自然破壊者もたくさんいるこの世の中です。

要するに、お互いを理解しあえるような話し合いが必要なだけです。
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