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2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。 藤田幸右(ふじたこうすけ) 管理人

鍬ヶ崎「区画整理事業」の今(3)避難道─1

2013年09月03日 | どうなる鍬ヶ崎

鍬ヶ崎の津波避難道 ─ その1

 

田老「区画整理」(昭和9年)の津波避難道

当時の設計者は防潮堤の建設と、村内市街地の区画整理を同時に着手した。各戸から土地を拠出させ、徒歩で津波から逃げるための区画の「隅きり」や避難のための山に向かう道路の拡張や新設を進めたのである。大きな津波は必ず防潮堤を超えてくる。高台への避難が津波防災の本題であった。その大原則にそった市街地作りが最重要課題だった事に村民の合意は形成されていた。今次3.11津波の大波から助かった人は、疑う事なく、この区画整理された市街地の道を通って高台への道を避難した。ある意味で道路に強く導かれて避難したとも言えるのである。── 田老「第一防潮堤」の今(まとめ)より引用



 
ガイドさんは「田老地区には山に向かう避難道が40以上ある」と力説している。(第一防潮堤にて 8/5)






 




鍬ヶ崎地区の津波避難道の現在と将来計画


鍬ヶ崎にはオーソライズされた津波避難道は一本もない。オーソライズされたとは誰でも利用できるという事である。山に向かう避難道はもちろん市街地の道もそのように造られていないから、他所(よそ)の人は平地を逃げながらでもぶつかったり転んだりする。山に向かう道は主に昔からのけもの道を利用したものである。ほか、神社やお寺に行く参道に甘えている。学校道路を通ったり、他人(ひと)の家や会社の敷地を通ったり、県道や国道が津波避難道だと思っている人も多い。大事のときの避難だから許されるといえばすべて許されるが、しかしそういうのはオーソライズされた津波避難道路とはいわない。他所の人には「そんなもの」はわけが分からないからだ。

鍬ヶ崎でも、日立浜町角力浜町内会(鳥居清蔵会長=当時)のように前々から避難路を整備し、独自な避難訓練を行って来て、震災時に大きな効果を上げたところもある。避難道路の問題は、このように意欲的な地区町内会のような小さな単位の地道な努力、試行錯誤の積み重ねが大事であるが、しかし、それだけではもう一歩足りないように思う。



鍬ケ崎地域の避難訓練(出典など不明)

一足飛びに言ってしまえば、国や県や市の予算を大きく使って、現地の人が安心でき、田老のように後代の人も恩恵を受け、何よりも、誰でも(一見の人でも)自由に活用できる、そのようにオーソライズされた避難道路の建設が必要なのである。鍬ヶ崎は田老と同じように山や山林の迫った急峻地形の地である。(陸前高田、石巻、名取市閖上地区などの平坦地帯とは別である=後述)。北三陸の宮古市の北・南そして宮古湾岸一帯。この地形の津波地帯の先駆けとして避難道路をオーソライズ、標準化できるのは鍬ヶ崎・光岸地地区や田老地区である。

津波避難の経験やイメージがこれほど豊富な地域はない。国土交通省、岩手県県土整備部、宮古市都市建設課、UR都市機構、ランドブレインの人々にはそこが遠い、そこが貧困で、はがゆい、間違う、ごまかす…。だから中心になるのは現地の人、いうならば津波被害者がこの中心にいなければならない。津波の経験やイメージが豊富なだけでなく、この急峻な鍬ヶ崎の地形や埴生状況、住民の日々の動態や感情が手に取るように分かる人たちが将来を設計するのだ。役所やコンサルタントはその司会、その技術上の手助け、予算獲得のための手続きや他の助け船の役割である。

── これまでもそうしてきたと言うであろうがそれは違う。寡聞にして私が知る限りそれをしてきたのは関口村長時代の田老地区、そして今次鍬ヶ崎の鳥居清蔵会長率いる日立地区である。そのノウハウは見習うべきである。継続し、発展させるべきである。

 


その2 につづく




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