宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

2、防潮堤は人の命を守れるのか? 守れないのになぜ?

2013年04月06日 | 防潮堤

 

 

防潮堤と人の命

 

・考えてほしい一番の問題は、防潮堤が人間の命を津波から守るようには設計されていないということである。建物や工場、街並あるいは道路、あるいは鉄道や橋を守ることを基準にして設計されそれを目的に造られているのである。津波を阻止し、町を津波から守るように一途に設計しようとしている。人の命はその流れの中で「あるいは守られるかもしれない」という程度の確実性なのである。否、はっきり言わせていただくが防潮堤の設計者は人の命のことは考えていないのだ。(陸閘を作ったり、手すりの階段、スロープ、側道をもって人の命を考えているとは言えない。それらは防潮堤設計にとって副次的なものだ)。今次津波を直接であれ間接的であれ経験した人は等しくこのことで目を覚ましてほしい、防潮堤は人の命を守るものではなかったことを。 どう言えばいいのであろうか?県土整備部も宮古市も、強くは出さないが防潮堤は人の命を守るような言い振る舞いをして防潮堤事業を前に進めている。防潮堤が津波を食い止め、市街地への浸水を防ぎ、命を救ってくれると信じている人との行き違いをどう説明するのか? …

 

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・人の命は弱いものであった。たった数メートル、数十センチの水かさで人は死んでいったのであった。建物と一緒に、また屋外で一人で、波に流され、がれきに押しつぶされて、溺れて死んでいった人がほとんどである。確かに建物の方が人間より強い。だから建物の強さ(高さ)を頼んで建物に居残り、建物に逃げ込んだのだが、津波の方がそれより高く強かった。津波から残った建物もあったが人は残らなかった。いや建物が残ったとは言えなかった。たしかに、建物より強くて高いものが防潮堤である。だから人はこれまでもこれからも「津波をくい止め人の命を守る」ものという願望を防潮堤に託している。

 

・しかしそれは間違っている。人間の命の点では防潮堤を信用してはならないのだ。願望はわかるがそれは夢・まぼろしだ。地震がきたら、津波の予報がでたら、いつもの高台にいそいで避難するしか確実に津波から身を守り命を守る方法はないのである。そのように覚悟を決めて、子供たちにも教えることだ。(ここでは詳しくは書かないが防潮堤より情報網や科学や教育の方が避難をより確実に容易にする。)家から出て、家に戻らず、より高い場所をめがけて避難することをどの被災経験者も強調している。子供たちの教育にも避難を取り入れている。これらのことを文化として重層的に伝承することが大事なことである。

 

 

人の命を守らなければ防潮堤に何の意味があろうか?

 

景 観 防潮堤は海の景観を隠すだけだ。鍬ヶ崎・光岸地人は海川の景観とともに生まれ育ってきたのである。防潮堤がなくても密集する建物で海は見えなかったという人がいるがそれはうそだ。潮風を受け、波の音を聞き、船の音をいつも聞いていた。漁模様はどこからかいつの間にか聞こえてきた。日に何度も岸壁にでて海を、閉伊川を見、港を見、魚市場を見、船を眺めたのである。鍬ヶ崎や光岸地からは水平線は見えない。出崎埠頭の先端に立たないと水平線を見ることができないが、この地勢こそ古くから有名な「風待ち」の良港の理由なのである。一方で、対岸の月山は三方からいつも見えてそれが鍬ヶ崎・光岸地から見える海の広がりであり水平線であった。鍬ヶ崎・光岸地のこの景観は浄土ヶ浜や蛸の浜とひと味違った港の風情を作って私自身は瀬戸内の鞆の浦に比している。防潮堤ができれば、そのばかでかいコンクリートの厚い壁で海は消える。川も消える。月山も消える。防潮堤に囲まれて、いまから2代目3代目で海への関心はなくなるだろう。──ある意味で津波への関心もなくなるのである。

 

空 気 海に向かって解放系であった鍬ヶ崎が閉鎖系になる影響は計り知れない。においや音、景色や風や季節感、それらはぜんぶ海の空気といっていい。それらはぜんぶ海から吹き付け、海に向いて流れていた。空気の動きが防潮堤で遮られて内にこもることは避けなければならないはずである。特に空気そのもの。どのように変化するのかわからないが海に向かって開け放たれていた鍬ヶ崎の空気の流れはどう動くようになるのだろうか? よい方向ではない。想像もできないがよい方向でないことはわかる。

 

環 境 海への影響は思ったより深刻である。町と海が解放系から閉鎖系になることによって水が滞り空気が淀む。陸からの排水や海からの寄せる波が、スムーズに流れなくて、隅の方から長い時間のうちに澱みや汚れがたまる。河川に見るような澱みの比ではない水の流通が完全に停滞して魚など海の動物、植物、微生物に悪い影響が出てくる。カキやホタテ等の養殖事業は後背地の緑化が生命線だというが真逆な環境変化が始まるのだ。陸と海のこのような自然な交流というものが、例えば宮古湾レベルでは海藻を育み貝類を成長させ、ニシン等の稚魚のふ化も見るようになったというのに…。県土整備部の構想とは宮古湾を薬品入りのコンクリートの壁で囲むという…。漁師は「海が死ぬ」と言っている。鍬ヶ崎人は港湾部でのこの海の環境を長く観察してきているが、防潮堤ができれば終わる。どう終わるのか? 恐ろしいくらいである。

 

漁 業 養殖事業や磯漁業、さらに沖合漁業等は環境と密接に関係する産業である。外(そと)海や前浜だけをきれいにしてもどうにもならないことは誰でも分かることだ。鍬ヶ崎の岸壁前一帯ではどんな漁業が行われているかわからないが、船の航行や接岸地帯だからといって環境保全をしっかりしなければならないことは環境ホルモンなどの研究も進んで今は世界の常識となっている。閉伊川河口も同じである。閉伊川は北上山系の陸の奥と宮古湾の海の沖をつなぐ大動脈である。大動脈の悠久の存在はある意味で一過性の津波より大事だと言える。水門や水門工事、また県庁の安易な水門発想は情けない。余計なコンクリートの足もとの汚れから海全体は汚れていくのである。少なくとも常に水流を解放系にしておかなければならないのだ。市民や漁師が神経質になる理由である。宮古湾を安易にコンクリートの壁で囲むことはひいては三陸沖の漁場に影響が出ることと考えなければならない。

 

五 感 日に何度か岸壁に行くと書いたがそうではない。岸壁に行かなくても鍬ヶ崎人は海の方、岸壁の方に聞き耳を立てている。耳、鼻、口、皮膚、味、手触り、空気の重さ等、いわゆる五官をもって海の様子をいつも探っている。海の変化、波の変化、風の変化、海の音や海のいろの変化を一番最初に感じ取るのは鍬ヶ崎人ではないかと思う。(鍬ヶ崎の防潮堤なので鍬ヶ崎人と言わせてもらっています)今次津波でも、地震と同時に鍬ヶ崎人の五官が向いたのは海の方角であった、と言っていい。防潮堤に囲まれて暮らすようになると最初に退化していくのはこの五官である、と言える。まえに田老の防潮堤を語って私は次のように書いた。「世界一の名の下に長い時間をかけて住民の海の自然に対する五感を退化させてきたのではないか?の思いは禁じえない。海の景観と空気感の感受性、波浪の気配の察知力、そして集落の過去の記憶力・伝承力…は弱くなってきていなかっただろうか?」と…。文章に批判もあったが将来も起こりえる現象である。

 

 ※ 防潮堤の可否、賛否についてはこれからも以上の事柄について個々に詳しく考えていきたい。私は海については鍬ヶ崎や宮古市の沿岸のことしか知らないからそこの防潮堤計画について書いている。というのは、鍬ヶ崎地区をはじめとして宮古市沿岸の集落は後背地を急峻な山に囲まれているという特殊な地形のなかにある。海に迫っているこの急峻な山稜の地形は、三陸沿岸の特徴であるリアス式湾岸のV字形と同様に、湾岸がすべてそうだとはかぎらないが多くの地域で同様の特徴になっている。 広い平坦部に市街地があるほかの地方とは津波防災の事情が違っているように思うわけである。例えば岩手県の陸前高田市や宮城県の塩釜市等はリアス式海岸でありながら市街地の平坦な土地が広く、高台への避難が容易でなかったように思われる。多くの犠牲者がでた理由の一つであると思われる。また宮城県の岩沼市,名取市一帯のように海岸線が直線的で集落がむしろ海岸平野の中にあるような地形の場所もある。つまり、防潮堤についてもその必要性、高さや設計や規模など地域地域によってすべて違うように思う。またすべての地域がそれぞれ違うべきであろう。

 

 

 

 

 

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