今、自分が声を大にして言いたいのは、
「マイルス・デイヴィスはただ者じゃなかった」ということだ。
まぁ、何を今更といった感はあるのだが、
ここ数ヶ月に読んだ2つのマイルスについての本が、
益々この思いを浮き上がらせるのだ。
1冊目が菊地成好、大谷能生共著の
『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』である。
壮大なマイルス研究本であり、読み込むには少々根気も必要になる。
東大の講義録とその他様々な企画を混ぜ合わせ構想6年という
まさに「マイルスを研究するための本」である。
このコンビは『東京大学のアルバート・アイラー』など
独自の視点から新しいジャズ論を展開していて、
その語り口は軽妙かつ分かりやすい。
お互いにミュージシャンをやっていることもあり楽曲の切り口も面白い。
特に『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の「ホンキー・トンク」と
『オン・ザ・コーナー』の1曲目のメドレーの解説は「なるほど」と思わされ、
聴き返してみると、これまた「なるほど」と納得してしまう。
もう1冊は、『マイルス・デイヴィスの生涯』である。
こちらはジョン・スウェッドがマイルスの言葉や関係あるミュージシャン、
家族などから証言を集め、丹念にその人生に迫っていく。
マイルスには自叙伝があるが、
その自叙伝では微妙な表現で書かれていたところも
第三者の視点から丁寧に解し直し、マイルスの実像に迫ろうとしている。
「オレの音楽をジャズと呼ぶな!」というのはマイルスの言葉であるが、
僕はマイルスを聴けば聴くほど「確かに」と思ってしまう。
コロンビアに移った頃から
マイルスの演奏していたのは「マイルス・ミュージック」だったのだろう。
つまりマイルスによるマイルスだけの音楽。
「ジャズ」という曖昧なジャンル分けにとらわれない
マイルスだけが奏でることのできる音楽。
それがマイルスの作品群なのだ。
と、言葉で語るよりもまずは中山康樹氏ではないが
「マイルスを聴」くしかない。
そこにはジャンルを超えたカッコ良さがあるのだから。
「マイルス・デイヴィスはただ者じゃなかった」ということだ。
まぁ、何を今更といった感はあるのだが、
ここ数ヶ月に読んだ2つのマイルスについての本が、
益々この思いを浮き上がらせるのだ。
1冊目が菊地成好、大谷能生共著の
『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』である。
壮大なマイルス研究本であり、読み込むには少々根気も必要になる。
東大の講義録とその他様々な企画を混ぜ合わせ構想6年という
まさに「マイルスを研究するための本」である。
このコンビは『東京大学のアルバート・アイラー』など
独自の視点から新しいジャズ論を展開していて、
その語り口は軽妙かつ分かりやすい。
お互いにミュージシャンをやっていることもあり楽曲の切り口も面白い。
特に『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の「ホンキー・トンク」と
『オン・ザ・コーナー』の1曲目のメドレーの解説は「なるほど」と思わされ、
聴き返してみると、これまた「なるほど」と納得してしまう。
もう1冊は、『マイルス・デイヴィスの生涯』である。
こちらはジョン・スウェッドがマイルスの言葉や関係あるミュージシャン、
家族などから証言を集め、丹念にその人生に迫っていく。
マイルスには自叙伝があるが、
その自叙伝では微妙な表現で書かれていたところも
第三者の視点から丁寧に解し直し、マイルスの実像に迫ろうとしている。
「オレの音楽をジャズと呼ぶな!」というのはマイルスの言葉であるが、
僕はマイルスを聴けば聴くほど「確かに」と思ってしまう。
コロンビアに移った頃から
マイルスの演奏していたのは「マイルス・ミュージック」だったのだろう。
つまりマイルスによるマイルスだけの音楽。
「ジャズ」という曖昧なジャンル分けにとらわれない
マイルスだけが奏でることのできる音楽。
それがマイルスの作品群なのだ。
と、言葉で語るよりもまずは中山康樹氏ではないが
「マイルスを聴」くしかない。
そこにはジャンルを超えたカッコ良さがあるのだから。