東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

北京

2023-01-31 22:24:25 | 日記
 清はチベットにも介入してったらしいからなあ。
 
 中国大陸にあった清は満州の人が建国した国だったみたいだけど、ウィキペディアで調べると、ヌルハチという人が1616年に建国した後金が清になったみたいです。ヌルハチという人の次の皇帝のホンタイジという人の時の1636年に元の玉璽を引き継ぎ、一緒にマハーカーラ像も受け取り、国名を大清として皇帝に即位したみたいです。大黒天はマハーカーラともいって、インドの神のシヴァの別名らしい。
 
 後金の首都は遼寧省にある瀋陽市だったようだけど、盛京と改称されたみたいです。清の首都は盛京から北京に移ったみたいです。北京には雍和宮というチベット仏教寺院があるみたいです。
 
 雍和宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

チベット

2023-01-31 22:20:17 | 日記
 チベット仏教には不信感しか感じないもんなあ。
 
 明治時代に河口慧海という黄檗宗の僧は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。河口慧海はチベット仏教を学んできて、帰国後にチベットの旅行記を書いたり、仏教関連の書籍をたくさん書いたようだ。河口慧海は大正時代に2回目のチベット入りをして、その後は僧籍を返上して在家仏教信者になったようだ。
 
 多田等観という人は岩手県花巻市に疎開してたらしいけど、多田等観は浄土真宗本願寺派の法主だった大谷光瑞の援助を受けてチベットにいたようだ。多田等観はダライ・ラマ13世とも懇意にしてたみたいです。浄土真宗本願寺派はチベットと交換留学もしていたようだ。
 
 ウィキペディアで調べると、ダライ・ラマは1642年にチベット政府の長になって、1959年までチベット政府の長だったようだ。チベットのラサというところにポタラ宮という宮殿があるみたいです。今のダライ・ラマは14世のようです。
 
 ポタラ宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

奈良

2023-01-31 22:18:09 | 日記
 ここも怖いんだよなあ。
 
 奈良県奈良市にある東大寺は華厳宗の寺で、東大寺は金光明四天王護国之寺というらしい。ウィキペディアの東大寺の歴史のところを見ると、東大寺は明治維新の後に浄土宗の寺になったようだけど、明治19年(1886年)に華厳宗の寺になったようだ。明治時代には大仏殿の修理が行われたようだ。
 
 東大寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

臨済宗

2023-01-31 22:15:16 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするし、この頃に清から僧の人たちがまとまって日本に来たとしか思えないんだよなあ。
 
 清ではアヘン戦争やアロー戦争があったり、太平天国の乱もあったみたいだからなあ。
 
 ウィキペディアを見ると、釈宗演という臨済宗の僧と土宜法龍という真言宗の僧は福沢諭吉の慶應義塾に入学して慶應義塾精神界の二大明星といわれてたらしい。2人とも明治26年(1893年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として行ってきたらしい。釈宗演は万国宗教会議で演説もしてきたらしい。
 
 釈宗演は福井県の高浜町の出身ということになってるようだけど、本当か知らない。釈宗演は出家して日本各地の寺で修行して、慶応義塾に入学した後にスリランカに行って仏教を学んできたらしい。釈宗演は円覚寺派の管長や建長寺派の管長を務めたようだ。
 
 釈宗演と一緒に学んだ僧で竹田黙雷という僧がいて、建仁寺派の管長に就任したようだ。ウィキペディアを見ると、大正2年(1913年)に開山栄西禅師七百年遠諱を厳修して、大正3年(1914年)に栄西の遺跡を比叡山で見付け、碑を建て栄西の遺徳を顕彰したらしい。京都にある臨済宗の寺の建仁寺は栄西の開山ということになってるらしく、建仁寺の開山堂は栄西の墓所のようです。
 
 建仁寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

御室

2023-01-31 22:13:28 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、明治時代の密教の僧で一番著名な僧は土宜法龍という真言宗の僧のようだけど、どうなんだろうなあ?。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山のようだけど、仁和寺は皇族の人が出家して住職を務めていた門跡寺院ということになってるらしい。太平洋戦争の後、昭和天皇は出家して仁和寺の住職になる話もあったようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。釈雲照という僧は高野山で学び、戒律の仏教を提唱したようだ。釈雲照は十善会という会を発足したらしい。次の仁和寺の門跡の泉智等という僧も高野山で学び、真言宗の布教のために日本各地を巡り、仁和寺の門跡や江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、高野山派の管長や金剛峰寺の座主にもなり、真言宗連合総裁にも就いたようだ。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は釈雲照を補佐し、十善会には久邇宮朝彦親王や小松宮彰仁親王も教えを受けに行ったようだ。土宜法龍は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は仁和寺の門跡や真言宗御室派の管長や高野山真言宗の管長や真言宗連合総裁を務めたようだ。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか