東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

秘密結社

2023-01-14 23:35:51 | 日記
 明治時代の歴史も、かなり嘘臭いんだよなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 下飯坂権三郎という人は明治35年(1902年)から大正3年(1914年)まで水沢町長を務めたようだ。下飯坂権三郎は板垣退助の自由党に入党し、岩手県会議員になったようだけど、自由党が改名した立憲自由党から出馬して衆議院議員になったようだ。その後に水沢町長を務め、水沢町長を務めた後は立憲政友会の岩手支部の幹事を務めたり、胆沢政友会を結成したようだ。詳しく知らないので、ウィキペディアで調べて書いてます。ウィキペディアには歴代水沢町長が載ってない。
 
 ウィキペディアで調べると、明治22年(1889年)に水沢町ができて、昭和29年(1954年)に水沢市ができたようだ。水沢市は平成18年(2006年)に合併して奥州市になってます。
 
 林董という人は日英同盟の調印の時の日本の代表だったようだ。第一次桂内閣の時の明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれ、日露戦争は明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったみたいです。林董は駐英公使だったようだけど、明治36年(1903年)にフリーメイソンに入会し、次の年には日本人初のロッジ・マスターになったようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。林董は第一次西園寺内閣で外務大臣、第二次西園寺内閣では逓信大臣を務め、外務大臣も一時兼任したようだ。林董は千葉県にあった佐倉藩の出身ということになってるらしい。
 
 後藤新平は第二次桂内閣と第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣では内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣でも内務大臣に就いたようだ。本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平もフリーメイソンらしい。いつからか知らないけど・・・。
 
 フリーメイソンですか・・・。
 
 
 火をつけるか

秘密結社

2023-01-14 23:31:14 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、秘密ですか・・・。
 
 黒船が来る前の日本は鎖国をしていてオランダから海外情報を入手していて、外国船打払令が文政8年(1825年)に出され、天保13年(1842年)まで続いていたみたいです。外国船打払令の後は薪水給与令が出されたみたいです。黒船来航は嘉永6年(1853年)のようです。
 
 広島県にあった福山藩の藩主だった阿部正弘は天保の改革の後も権力の座に居座り続けた水野忠邦を老中首座から追い出し、老中首座に就いて幕府の政治の改革を行ったみたいです。安政の改革というみたいです。阿部正弘が老中首座だった時に黒船が来て、嘉永7年(1854年)に日米和親条約が結ばれたみたいです。阿部正弘は、その後に亡くなったみたいです。
 
 千葉県にあった佐倉藩の藩主だった堀田正睦は天保の改革に関わった後に老中を退いていたようだけど、黒船が来た後に再び老中に起用され、老中首座だった阿部正弘から老中首座を譲られたみたいです。堀田正睦はアメリカ総領事のハリスと交渉して、日米修好通商条約の調印のために孝明天皇の勅許を得ようとしたみたいですが、無理だったみたいです。井伊直弼が幕府の政治の権力を握り、堀田正睦は幕府の政治から追い出されて家督を譲って隠居したみたいです。
 
 佐倉藩の最後の藩主の堀田正倫は堀田正睦の息子のようだけど、次の佐倉藩の堀田正恒という人は佐賀県にあった蓮池藩の鍋島氏から養子で入った人のようだ。
 
 第一次桂内閣の時の明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれ、日露戦争は明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったみたいです。林董という人は日英同盟の調印の時の日本の代表だったようだ。林董は駐英公使だったようだけど、明治36年(1903年)にフリーメイソンに入会し、次の年には日本人初のロッジ・マスターになったようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。林董は第一次西園寺内閣で外務大臣、第二次西園寺内閣では逓信大臣を務め、外務大臣も一時兼任したようだ。
 
 林董という人は千葉県にあった佐倉藩の出身ということになってるらしいけど、林董は蘭学者で医者の佐藤泰然という人の息子で、蘭学者で医者の林洞海という人の養子になったようだ。佐藤泰然は順天堂の開祖らしい。本当か知らない。佐倉藩の藩主だった堀田正睦は蘭学を奨励し、順天堂を開かせたようだけど、順天堂が順天堂大学になったんでしょうか?。
 
 西周という人は日本で最初のフリーメイソンらしいけど、西周は島根県にあった津和野藩の出身らしい。本当か知らない。林洞海の息子は西周の養子になったらしく、西紳六郎と名乗ったようだ。ウィキペディアで調べて書いてるけど、これでいいんでしょうか?。
 
 ウィキペディアで調べると、西周は1864年にオランダに留学中にライデンというところでフリーメイソンに入会したらしい。津田真道という人も日本で最初のフリーメイソンらしいけど、津田真道も1864年にオランダに留学中にライデンでフリーメイソンに入会したらしい。
 
 フリーメイソンですか・・・。
 
 
 火をつけるか

秘密結社

2023-01-14 23:21:02 | 日記
 謎だよなあ。奥州市の水沢の街の人たちは隠してる?。本当のことを知られちゃ不味いみたいなかんじで。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、椎名悦三郎という人は岸信介と一緒に満州国の運営に関わったり、太平洋戦争の後は政治家になって、岸内閣では官房長官に就き、池田内閣では通商産業大臣と外務大臣に就き、佐藤内閣でも通商産業大臣と外務大臣に就いたようだ。田中角栄と三木武夫が総理大臣だった時は自民党の副総裁だったようだ。椎名悦三郎の息子の椎名素夫という人も政治家だった人です。
 
 椎名悦三郎は後藤家の出身で、後藤新平の姉の嫁ぎ先に養子に入って椎名悦三郎と名乗ったらしい。後藤新平は血縁の無い叔父らしい。椎名悦三郎の父は後藤広という人で、後藤家に婿養子に入ったようだ。後藤広という人は岩手県議会議員になり、その後に水沢町長を10年間務めたようだ。
 
 高野長英は後藤新平の後藤家から高野家に養子に入ったらしいけど、椎名悦三郎の悦三郎という名前は高野長英の幼名から名付けられたようだ。ウィキペディアにそう載ってる。
 
 奥州市の水沢の出身の医者で蘭学者の高野長英はシーボルトの鳴滝塾で学んだようだけど、幕府の鎖国を批判して捕まったみたいです。蛮社の獄というようだけど、天保10年(1839年)にあったみたいです。高野長英は脱獄して逃亡生活を続け、愛媛県にあった宇和島藩にもいたみたいだけど、江戸に戻ってきて捕まり、その時に殴打され、護送途中に亡くなったみたいです。
 
 黒船が来る前の日本は鎖国をしていてオランダから海外情報を入手していて、外国船打払令が文政8年(1825年)に出され、天保13年(1842年)まで続いていたみたいです。外国船打払令の後は薪水給与令が出されたみたいです。黒船来航は嘉永6年(1853年)のようです。
 
 黒船で来たペリーはフリーメイソンらしい。安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれたようだけど、日米修好通商条約が結ばれた後に横浜が開港して、横浜にはフリーメイソンのロッジができたらしい。第二次世界大戦前の日本にはフリーメイソンのロッジが8つあって、そのうちの4つが横浜にあったらしい。第二次世界大戦の後に日本国内のフリーメイソンのロッジの再建が行われて、日本にあるロッジでフリーメイソンの会員になった人もいるようだ。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平はフリーメイソンらしい。いつからか知らないけど・・・。
 
 フリーメイソンですか・・・。
 
 
 火をつけるか

政党

2023-01-14 22:49:55 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、日本で世襲議員が多いっていうのは、なんとなく、理解できるでしょ?。
 
 板垣退助は高知県にあった土佐藩の出身ということになってるらしいけど、第二次伊藤内閣と第二次松方内閣で内務大臣に就任し、第一次大隈内閣でも内務大臣に就任したようだ。第一次大隈内閣の前に自由党と進歩党が合併して憲政党ができて、第一次大隈内閣は日本で初の政党内閣で、隈板内閣といわれるらしい。
 
 板垣退助は明治7年(1874年)に日本で初期の政治結社の愛国公党を結党し、明治14年(1881年)には日本で初期の政党の自由党を結党したらしい。自由党が解党分裂して、自由党にいた人たちが再結集して明治23年(1890年)に再び自由党ができたらしい。
 
 自由民権運動の話も嘘臭いんだよなあ。
 
 明治23年(1890年)には第一回衆議院選挙が行われ、衆議院と貴族院の二院制で国会が始まったようだ。衆議院の議員は選挙で選ばれ、貴族院の議員は皇族や華族や勅任という特別に認められた人が議員になったようだ。太平洋戦争の終戦後に華族制度が無くなり、貴族院に代わって今の参議院ができたみたいです。
 
 日本で国会が始まった頃は自由党と立憲改進党が衆議院で勢力を広げてたらしい。明治29年(1896年)に立憲改進党は進歩党の結成に加わり、明治31年(1898年)に自由党と進歩党が合併して憲政党ができて、大隈重信が総理大臣に就いて、第一次大隈内閣は日本で初の政党内閣らしいけど、4ヶ月で終わったみたいです。第一次大隈内閣の終わりとともに憲政党は解党になり、旧自由党の人たちが新たに憲政党を結党し、新しく出来た憲政党は立憲政友会に繋がっていったようだ。
 
 立憲政友会は略して政友会で、初代総裁は伊藤博文で、次の総裁が西園寺公望で、次の総裁が原敬で、次の総裁が高橋是清で、次の総裁が田中義一で、次の総裁が犬養毅で、最後の総裁が鈴木喜三郎のようだ。詳しく知らないので、ウィキペディアで調べて書いてます。
 
 伊藤博文は暗殺され、原敬も暗殺され、高橋是清も暗殺され、犬養毅も暗殺され、立憲政友会って・・・。
 
 西園寺公望は総理大臣を辞めてからは元老になって政界の重鎮のような存在でいたようだ。太平洋戦争の終戦前の日本の総理大臣の決め方は元老といわれる人たちが次の総理大臣を決めて天皇に言い、天皇から総理大臣が指名されていたようだ。その最後の元老が西園寺公望で、昭和の初め頃は元老は西園寺公望1人だけだったようだ。
 
 旧改進党勢力は新しく政党を作ったり他の政党と合併したりして、昭和の初め頃には立憲民政党ができ、昭和の初め頃は立憲政友会と立憲民政党の二大政党の時代だったようだ。ウィキペディアで調べて書いてるんですが、こんなかんじでいいんでしょうか?。第二次近衛内閣の時の昭和15年(1940年)に大政翼賛会ができて、すべての政党が解散して、立憲政友会も立憲民政党も大政翼賛会に合流したようだ。

 立憲政友会ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

富豪

2023-01-14 22:45:42 | 日記
 偽装保守っていうの?、政治でも経済でも軍事でも、評論家みたいな人たちって、なんなんでしょうね?。
 
 松方正義という人は薩摩藩の出身ということになってるみたいだけど、松方正義は初代大蔵大臣で、何度も大蔵大臣に就いて、日本の総理大臣には2度就いて、元老として政界の重鎮のような存在になったみたいだ。松方正義は日本銀行を設立したらしいけど、日本銀行は明治14年(1881年)に設立されたらしい。たぶんですけど・・・。
 
 明治14年(1881年)から松方デフレが始まったようだけど、松方正義は大蔵卿に就き、官営工場の民間への払い下げや増税を行ったようだ。その結果、農村が困窮して、土地を売ったり、都会に出て行く人も増えたようだ。自作農から小作農になったり、資本家のもとで労働者になる人も増えたようだ。
 
 この頃には自由民権運動もあったらしいけど、自由民権運動の話も嘘臭いんだよなあ。
 
 松方正義はフランスの大蔵相の人の助言で日本銀行を設立したようだけど、その人の紹介でフランスのロスチャイルド家の人に会ったようだ。松方正義は日露戦争の前にはイギリス国王に会い、イギリスのロスチャイルド家の人とも会ったようだ。
 
 ロスチャイルド家のルーツはフランクフルトにいたユダヤ人で、フランクフルトは昔は神聖ローマ帝国のヘッセン=カッセル方伯領で、ロスチャイルド家は宮廷ユダヤ人だったようだ。ロスチャイルド家は日露戦争の頃に日本に巨額を貸し付けたり、関東大震災の後の復興融資をしたようだ。
 
 大蔵省は平成13年(2001年)に改編改称されて財務省になったようだ。岸田政権の財務大臣の鈴木俊一さんの地元は岩手県だけど、鈴木さんは麻生太郎さんの義理の弟らしい。麻生さんは日本の総理大臣になった人だし、麻生さんは鈴木さんの前の財務大臣で、安倍政権と菅政権の副総理兼財務大臣だからなあ。
 
 ロスチャイルド家ですか・・・。
 
 
 火をつけるか