東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

平泉

2023-01-10 22:54:41 | 日記
 一握の砂ですか・・・。
 
 岩手県の平泉町にある中尊寺は天台宗の寺で、山号は関山です。中尊寺の金色堂には奥州藤原氏の4代目の藤原泰衡の首が納められていて、ウィキペディアで調べると、藤原泰衡の首は昭和25年(1950年)に調査が行われたらしく、何ヶ所もの切傷や刺傷があって、鼻と耳が削がれていて、眉間と頭の後ろのほうに釘が打たれたような跡があるらしい。
 
 藤原泰衡の首は藤原泰衡の兄弟の藤原忠衡の首と中尊寺では言い伝えられてきたらしく、首桶が入っていた箱にも忠衡公と書いてあるらしい。藤原忠衡は平泉町にあった柳之御所にいて、和泉三郎といわれるらしい。
 
 平泉町の隣の一関市に龍澤寺という曹洞宗の寺があって、山号は里中山です。龍澤寺は藤原忠衡の創建ということになってるみたいです。
 
 曹洞宗の大本山は福井県にある永平寺と神奈川県にある總持寺で、總持寺は明治44年(1911年)に神奈川県横浜市に移ったらしく、その前は石川県輪島市にあったみたいです。石川県輪島市に總持寺祖院があるみたいです。總持寺の山号は諸嶽山のようです。横浜に移った時の總持寺の貫首は石川素童という僧で、曹洞宗の管長だったようだ。
 
 總持寺は明治時代になってからは独住といって1人の僧が住職を務めているらしい。諸嶽奕堂という僧が總持寺の独住の第一世らしい。ウィキペディアを見ると、山形県鶴岡市にある善宝寺で亡くなったことになってる。
 
 山形県鶴岡市に善宝寺という曹洞宗の寺があって、山号は龍澤山のようです。善宝寺のHPを見ると、龍王尊祈祷道場とあって、善宝寺は曹洞宗の寺でも祈祷をする寺で、善宝寺では龍王講があるらしく、HPを見ると、明治44年に始まったみたいだ。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

石川

2023-01-10 22:51:48 | 日記
 一握の砂ですか・・・。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は戦国時代は福島県の三春町にいて、戦国時代の終わり頃に途絶え、伊達政宗の妻の愛姫が田村氏の出身ということになっていて、伊達家が再興したことになってる。田村氏は伊達騒動の後に一関に来たことになってる。本当か知らない。
 
 明治維新の後の田村氏の田村邦栄という人は宮城県角田市にいた石川家から来た人らしく、戊辰戦争の後に弟の田村崇顕に家督を譲ったみたいだけど、再び家督を継いだようだ。田村崇顕という人も石川家から来た人らしい。次の田村氏の田村丕顕は田村邦栄の息子で、海軍の軍人だったようだ。詳しく知らないので、ウィキペディアで調べて書いてます。
 
 宮城県角田市には石川氏がいて、伊達藩の家臣団の序列の一番上の一門の首席だったようだ。伊達藩では仙台と白石に城があって、他は城といっても要害というらしい。
 
 江戸時代の最後の石川家の石川邦光は明治維新の後に北海道の室蘭郡の開拓で移住する予定だったらしいけど、詐欺にあって移住費用をだまし取られ、室蘭郡への移住は取りやめになったようだ。その後に石川邦光は西南戦争に行き、西郷軍とも戦ったようだ。石川邦光は角田町の初代町長に就任したようだけど、その後に町長を辞職して北海道の南幌町に移住して、石川邦光の妻は北海道の開拓地を違う人に売却してしまい、協議が行われ、開拓する土地を託して角田に戻ってきたらしい。よくわからないが、ウィキペディアで調べて書いてます。北海道の室蘭郡の開拓には石川邦光の兄弟の石川光親が携わったようだ。
 
 石川啄木は明治19年(1886年)の生まれで、明治45年(1912年)に26歳で亡くなったようだ。石川啄木は盛岡市の旧玉山村の日戸というところの出身で、石川啄木の父は日照山常光寺という曹洞宗の寺の住職をしてたようだけど、石川家は石川啄木が1歳の時に旧玉山村の渋民にある万年山宝徳寺という寺に移ったようだ。詳しく知らないのでウィキペディアで調べて書いてます。
 
 曹洞宗の大本山は福井県にある永平寺と神奈川県にある總持寺で、總持寺は明治44年(1911年)に神奈川県横浜市に移ったらしく、その前は石川県輪島市にあったみたいです。石川県輪島市に總持寺祖院があるみたいです。總持寺の山号は諸嶽山のようです。横浜に移った時の總持寺の貫首は石川素童という僧で、曹洞宗の管長だったようだ。
 
 總持寺は明治時代になってからは独住といって1人の僧が住職を務めているらしい。諸嶽奕堂という僧が總持寺の独住の第一世らしい。ウィキペディアを見ると、山形県鶴岡市にある善宝寺で亡くなったことになってる。
 
 山形県鶴岡市に善宝寺という曹洞宗の寺があって、山号は龍澤山のようです。善宝寺のHPを見ると、龍王尊祈祷道場とあって、善宝寺は曹洞宗の寺でも祈祷をする寺で、善宝寺では龍王講があるらしく、HPを見ると、明治44年に始まったみたいだ。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

田村

2023-01-10 22:39:40 | 日記
 なんか、凄いよなあ。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は戦国時代は福島県の三春町にいて、戦国時代の終わり頃に途絶え、伊達政宗の妻の愛姫が田村氏の出身ということになっていて、伊達家が再興したことになってる。田村氏は伊達騒動の後に一関に来たことになってる。本当か知らない。
 
 伊達騒動では一関にいた伊達兵部といわれる伊達宗勝が土佐に流されたことになってる。大槻文彦という人は一関市の出身ということになってるみたいだけど、明治時代に文部省に務め、日本初の近代的国語辞典の言海を編纂したらしい。大槻文彦の書いた伊達騒動実録が伊達騒動の基本資料になってるらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 明治維新の後の田村氏の田村邦栄という人は宮城県角田市にいた石川家から来た人らしく、戊辰戦争の後に弟の田村崇顕に家督を譲ったみたいだけど、再び家督を継いだようだ。田村崇顕という人も石川家から来た人らしい。次の田村氏の田村丕顕は田村邦栄の息子で、海軍の軍人だったようだ。詳しく知らないので、ウィキペディアで調べて書いてます。
 
 宮城県角田市には石川氏がいて、伊達藩の家臣団の序列の一番上の一門の首席だったようだ。伊達藩では仙台と白石に城があって、他は城といっても要害というらしい。
 
 江戸時代の最後の石川家の石川邦光は明治維新の後に北海道の室蘭郡の開拓で移住する予定だったらしいけど、詐欺にあって移住費用をだまし取られ、室蘭郡への移住は取りやめになったようだ。その後に石川邦光は西南戦争に行き、西郷軍とも戦ったようだ。石川邦光は角田町の初代町長に就任したようだけど、その後に町長を辞職して北海道の南幌町に移住して、石川邦光の妻は北海道の開拓地を違う人に売却してしまい、協議が行われ、開拓する土地を託して角田に戻ってきたらしい。よくわからないが、ウィキペディアで調べて書いてます。北海道の室蘭郡の開拓には石川邦光の兄弟の石川光親が携わったようだ。
 
 一関市にある祥雲寺という臨済宗の寺に田村藩の田村氏の墓所があります。祥雲寺の山号は大慈山のようです。HPを見ると、明治時代に火事があって、その後に再建したと書いてある。田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってるけど、坂上田村麻呂の征夷の話は嘘の気がするけど、カルト仏教の呪いもカルト神道の呪いも凄まじいなあ。
 
 祥雲寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

一条

2023-01-10 22:35:48 | 日記
 南部氏が明治時代の前に盛岡にいたと思えないんだけど、陰謀論ですか・・・。
 
 ウィキペディアで調べると、南部藩の最後の藩主は南部利恭という人のようだ。次の南部氏の南部利祥は南部利恭の息子で、南部利祥は陸軍の軍人になり、日露戦争で戦死したみたいです。次の南部氏の南部利淳も南部利恭の息子で、南部利祥の兄弟だそうです。次の南部氏の南部利英は一条家から来た人で一条実輝の息子らしい。南部利英は南部利淳の娘を妻にして南部家に養子に入ったみたいです。南部利英の時に太平洋戦争の終戦を迎えたみたいです。
 
 明治天皇の皇后の昭憲皇太后は一条家の出身で、一条忠香という人の娘らしい。一条忠香の息子の一条実良は明治維新の前に亡くなったらしく、次の一条家の一条忠貞は醍醐家から来た人で、一条実良の娘を妻にしたみたいだけど、離婚問題で訴訟事件になったみたいです。次の一条家の一条実輝は四条家から来た人で、次の一条家の一条実孝は大炊御門家から来た人のようだ。一条実孝の時に太平洋戦争の終戦を迎えたみたいです。
 
 大炊御門家は公家で藤原氏の系統の氏族らしい。大炊御門師前という人の息子が一条実孝のようだけど、ウィキペディアを見ると、いろいろと問題があって、大炊御門家は弟の大炊御門幾麿が継いだようだ。大炊御門師前は警視庁に務めたようだけど、警視庁も辞めたようだ。
 
 日本赤十字社の創始者の佐野常民という人は佐賀藩の出身らしい、佐野常民の息子の佐野常羽はボーイスカウトに関わってたようだ。佐野常羽の息子の佐野常光は一条家から来た人で、一条実輝の息子らしい。
 
 佐野常羽は昭和6年(1931年)にボーイスカウトイギリス連盟の最高位の功労賞のシルバー・ウルフ章をもらってるらしい。昭和天皇は皇太子だった時の大正10年(1921年)にシルバー・ウルフ章をもらってるらしい。日本人でもらってるのは昭和天皇と佐野常羽だけらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 ウィキペディアのフリーメイソンのところに日本のボーイスカウトとあって、ボーイスカウト日本連盟の前身の少年団日本連盟の初代総裁の後藤新平はフリーメイソンと載ってる。大正11年(1922年)に少年団日本連盟ができたようだ。後藤新平が本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど・・・。
 
 フリーメイソンですか・・・。
 
 
 火をつけるか

秋田

2023-01-10 22:32:15 | 日記
 明治時代に日本の歴史が変えられたとしか思えないんだけど、もっと整理してからブログに書けって話だよなあ。
 
 ウィキペディアで調べると、南部藩の最後の藩主は南部利恭という人のようだ。次の南部氏の南部利祥は南部利恭の息子で、南部利祥は陸軍の軍人になり、日露戦争で戦死したみたいです。次の南部氏の南部利淳も南部利恭の息子で、南部利祥の兄弟だそうです。次の南部氏の南部利英は一条家から来た人で一条実輝の息子らしい。南部利英は南部利淳の娘を妻にして南部家に養子に入ったみたいです。南部利英の時に太平洋戦争の終戦を迎えたみたいです。
 
 岩手県の金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎といわれるらしい。安倍貞任は盛岡にあった厨川柵にいたことになっていて、厨川次郎といわれるらしい。
 
 安倍貞任の息子が津軽に逃げて安藤氏(安東氏)の祖になったらしいけど、安藤氏(安東氏)の発祥の地は藤崎町らしい。安藤氏(安東氏)は十三湖の近くを拠点にしてたことになってる。安藤氏(安東氏)は戦国時代は秋田県にいたらしい。安藤氏(安東氏)は江戸時代は秋田氏を名乗っていて、福島県にあった三春藩の藩主だったらしい。本当か知りませんけど・・・。
 
 大正天皇は明治天皇と柳原愛子という女性の息子らしい。柳原前光という人の妹が柳原愛子らしいけど、柳原家は柳原前光の息子の柳原義光の頃から柳原白蓮という人を含め、スキャンダルまみれになってったみたいです。
 
 三春藩の最後の藩主は秋田映季で、次の秋田氏の秋田重季という人は公家の大原氏から来た人らしい。柳原義光の次の柳原氏も大原氏の人が継いだらしく、秋田重季という人と柳原博光という人は兄弟らしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 白蓮事件というみたいだけど、歌人で結婚していた柳原白蓮は大正10年(1921年)に失踪して恋仲だった男性と駆け落ちしたようだ。白蓮事件で柳原家は世間を騒がせたということで柳原義光は議員辞職に追い込まれ、「先帝に畑を提供した」とか「やめてやるから金をくれ」みたいな暴言を放ったようだ。詳しいことは、わからないけど、ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 柳原家は明治天皇に畑を提供したんだってさ。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか