「古井喜実先生の業績を顕彰する会」が鳥取市内のホテルで、日中国交正常化40周年記念交流事業として開催されましたので、参加させていただきました。
古井先生は郡家に生まれ、内務省に勤務し、東京都制を実現し、42歳で次官に就任。戦後は政界に転じ、衆院議員を11期務め、日中国交正常化に努力され、1995年に92歳で他界されました。
会は日中友好協会の福間理事長の挨拶で始まりました。藤井会長が関西広域連合議会の常任委員会のため、出席できず、福間県議が主催者を代表して挨拶となったわけです。
福間議員は「水を飲む人は井戸を掘った人のことを忘れてはいけないと中国では言います。日中友好を考えるとき、古井先生の功績を掘り起こし、後世に伝えていかなければならないと思います」と話されましたが、その通りだと思いました。
来賓として、元知事で国会議員でもあった平林鴻三さんが挨拶されました。
「私は81歳になりましたが、古井先生は矍鑠としておられました。敬愛というより、畏敬の対象です。私の先生が古井先生の弟子ですから、古井先生は雲の上の人。明治の気骨を引き継ぎ、中国との細い糸を繋ぎながら、国交を回復させたのは大変ことだと思います。後藤田正晴さんは古井さんと同じ内務省出身でしたが、かつて『古井さんには親分、子分はなかったけれども、先輩、後輩、友人がたくさんいた』と回顧されていました。その言葉通りで、独立自尊、その人柄を示すものだと思います。鳥取県で志のある人は皆、古井さんの周囲に集まっていたようにも思います。皆さんから慕われているという点では、これ以上の人はいない人はいません。雲の上の人でしたが、今日は感想を言われていただきました」などと話されました。古井先生を直接知る方の言葉だけに、興味深く、聞かせていただきました。
八頭町長の平木誠さんも思い出を語りました。
「同じ八頭町池田の出身です。郡家駅前に胸像を建てました。古井先生は生前、「胸像を建ててはいかん」と言われていたそうですが、古井先生のお人柄だと思い、実行委員会を作り、建てさせていただきました。 長島愛生園を訪れたとき、ハンセン病と闘ってきた加賀田さんから、環境問題と、世界にアンテアを張り巡らせることが大事と言われ、古井先生はソ連から生ワクチンの導
入を決められたことを思い出したました。八頭町がワクチン等の導入に懸命なのは古井先生に学んだものです」。岩美町の副町長も、岩美町と古井先生の縁を話されました。
記念講演は、「古井善実と中国」を著した鹿雪宝・同志社大学教授です。
以下はその骨子です。
京都大学に留学したとき、古井先生の資料がたくさん寄贈していることを知り、研究テーマに選び、本も書かせていただきました。水を飲む人は井戸を掘った人のことを忘れてはいけないと諺がありますが、日中国交正常化の縁の下で努力された人のことを得れてないはいけないと思い、今日の講演を引き受けたけであります。
1962年に調印されたLT貿易は、大きな意味があったのですが、佐藤内閣の登場で日中関係は悪化した。しかも、ベトナム戦争もあり、日中関係は最悪になりました。5年の期限でLT貿易は終わるようになっていましたが、古井先生が努力され、NT貿易として継続されることになりました。しかし、古井先生は、中国で佐藤内閣の手先だと避難され、国内では土下座外交とさげすまされたが、それでも、真摯に努力なさったのです。
その理由は、これ以上、日中関係を悪化させてはいけないし、ベトナム戦争はいずれ終わる。そうなれな、アメリカは中国と手を結ぶだろうから、その時に備えなければならないという先見の名もあったからです。 古井先生は日本のことを第一に考える戦時下ではありましたが、自国のことだけを考える偏狭な民族主義者ではありませんでした。
中国は野党や市民との間に、いくつものルートはありまたが、最後は自民党のルートは古井先生のルートしかなかったのです。というのも、社会党、公明党ルートでは野党が政策決定をしたことになり、内閣の面子が立たないからです。そこで、中国が重傷視したのが古井先生らのLT貿易、NT貿易ルートだったのです。日中国交正常化の立役者は古井先生です。 日中関係を考えるとき、忘れてはならず、もっと評価されていい政治家だと思います。
その後、古井先生を偲ぶ宴となりましたが、様々な話を拝聴し、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。この会を企画、運営されました皆様に心からの感謝を申し上げます。
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