すなば たかひろ

「元気で人に優しい鳥取」を取り戻すため、県議になった元新聞記者の挑戦記。みんなで鳥取の未来像を考えましょう!

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会派「かけはし」県外調査2日目(1)女川原子力発電所 

2012年08月30日 | 日記

  石巻市や女川町では、まだホテル等の復旧が進んでおらず、復旧した所も、復旧作業やボランティアが宿泊されており、宿の予約を取ることができず、東松島市まで戻ってホテルチェックイン。ベッドで寝ていると激しい揺れに襲われ、目を覚ましました。時計を見ると午前4時5分でした。携帯電話に届いたニュースメールによると宮城県沖を震源とする地震があり、東松島市は震度5弱とのこと。震災復興の調査に来て、地震に会うのも不思議な感じです。

 この日は、女川原発から調査を再開する予定でした。地震後の安全確認などで調査の対応どころではないのではないかと思い、女川原発に電話を架けると「地震の影響は全くなく、職員に招集をかけることなく、通常と同じです。どうぞ、いらして下さい」とのこと。それで女川原発に向かって出発したのですが、三陸自動車道は車が数珠繋ぎでほとんど動いていません。それで、高速自動車道ではなく、下道で原発に向かいました。

 原発のゲートでは一人一人事前に届け出た書類を運転免許証で確認。自動車のトランクや車体の下まで確認して、やっと入構証をもらい、中にいれていただきました。事務等では津幡俊上席執行役員兼女川原子力発電所長、加藤功所長代理らに出迎えていただきました。

 会議室で調査を開始です。まず 津幡所長からお話を聞きました。

以下はその概要です。

 女川原発はもっとも震源地に近かった原発で、本当に大きな地震でしたが、設備に問題なく、冷温停止できました。また、原発の周辺の集落も津波に襲われ、原発が冷温停止していることから、避難してこられましたので、一緒に震災を乗り切りました。このため、多くの新聞等に取り上げていただきました。先日、7月30日にはIAEAの専門家が約20名が約10日間調査され、評価いただいたところです。地震の大きさは、設計値を超えるものもございましたので、現在、所員ら2000人がシビルアクシデント対策のための作業をしています」と挨拶していただきました。

詳細説明は加藤所長代理からお聞きしました。

以下はその説明の概要です。 

 女川原発は震源から130キロと地番近かった原発ですが、問題なく冷温停止できました。なぜそうなったのか、その理由を説明します。東北電力は東北と新潟に電力を供給していますが、その管内に東京電力さんも3カ所大きな原子力発電所を持っています。震災前28%が原子力で発電していましたが、現在はゼロ。これが電力各社と同様に経営を圧迫しています。

 地震よりも津波で東北電力の太平洋側の発電所は大きな被害を受けました。八戸(石油)は3月中、仙台火力(ガス)、新仙台ガス(ガス・石油)は年末までに再開。そして、原町(石炭)は大きな被害を受け、懸命の復旧作業中ですが来年夏の再開を目指しています。東通の原子力発電所は被害は軽微で、検査も終え、運転を再開しようと思えばいつでもできる状況です。

 女川は敷地が高いことから被害は軽微でした。今、いるところは昨年11月に完成した事務新館です。免震構造の8階建てで、震災時はガラスも入っていましたが、1枚も割れませんでした。古い事務棟も耐震補強をやっていたおかげで、機能が維持されました。建物が載っている敷地の高さは約15メートル。津波の高さは13メートルで端的に言えば、このため被害を防げたわけです。

 海岸、岸壁といった低い部分には何も置いていなかったのですが、福島原発はポンプなど低いところに置いていました。女川原発は高い所にある敷地にピットというくぼみ穴を掘って、そこに置いています。

 女川町は港から入った津波がすべての建物を押し流した。1万の人口の1割が亡くなった。ここには東電の社宅もありましたが、すべてなくなりました。

 震災が起こったときの状態です。1号機と3号機は100%の運転中でした。2号機は運命的と申しましょうか、定期検査を終え、これから運転するぞと3月11日14時に起動を開始しました。起動とは核分裂を始めさせることです。そして、14時46分に地震が起こると同時に、3機とも自動停止いたしました。原子炉の安全上重要なのは止める、冷やす、閉じ込めるとよく言います。核反応を止めて、核燃料から出てくる余熱が非常に大きいので、これを冷やしてやる。福島では冷やすことができず、余熱で燃料棒が溶けるという状況になりました。そして、放射性物質を閉じ込めるということです。女川では、止める、冷やすがうまくいって、放射性物質も閉じ込めることができました。実は12日深夜、女川のモニタリングポストが通常の1000倍の数値を記録したんですが、これは福島の水蒸気爆発の結果であって、女川原発では止める、冷やす、閉じ込めるが問題なくなされました。

 女川原発の地震による被害ですが、1号機の高圧電源盤、大きなスイッチと考えていただければいいんですが、安全とは全く関係のないスイッチなんですが、これがショートを起こして、焼損いたしました。海岸にある重油用のタンク、施設の暖房などに使う安全に関係ないものですが、これが津波で浮いてひっくり返りました。2号機ですが下の方から津波が侵入し、機器の交渉が起こりました。

 福島では外部電源が遮断され、非常用発電機が浸水し、電気を出していく配線の盤が海水に浸かり、水と電気は組み合わせが悪いものですから、電源が全くなくなってしまった。女川では非常用電源は8機中6機は健全でした。外部電源は5系統ありましたが、1回線は正常で必要な電源は確保されていました。2回線は12日、1回線は17日、のこる1回線も26日復旧しました。

 男鹿半島全体が均衡に1メートル沈降しましたので、14.8メートルの敷地は13.8メートルになり、13メートルの津波が襲ったわけですが、それでも敷地よりも高かったわけです。港湾は2.5メートルでしたので重油タンクに被害が出ました。

 女川原発で安全が確保できた理由は、敷地の高さであり、電源の確保です。しかし、それだけではなく、様々な耐震対策を続けてきた結果でもあります。耐震裕度を増すために、震災前に1号機から3号機までで6600カ所に筋交いを入れました。また、中越沖地震を踏まえ、耐震構造の事務棟を建設していましたが、それまでの間、旧事務棟にも耐震工事をするなど様々な対策を講じ、訓練を重ねてきたことが適格な対応となりまして、あれほど大きな地震でありましたが安全を確保できたと思います。

 なんで15メートルという敷地の高さにしたのかということに一番の興味があると思いますが、それを説明します。1号機が建設された昭和40年代、貞観津波などの様々な津波を調べまして、さらに、ここが外海に面していますことから、津波の想定は3メートルでした。ところが、ここからが先輩達がいい判断をしたと思うんですが、三陸は過去、大きな津波を何度も襲っていることから、我々の知識には限界がある。10メートルは譲れないだろうということになり、10メートルになんぼ余裕を持たせるかという議論をして、積み上げて15メートルに致しました。想定の3メートルの5倍というわけではありません。

 その後、昭和62年には電算機によるシュミレーションや考古学的知見も増え、津波想定が9.1メートルになりましたので、9.7メートルまで法面をコンクリートで固めました。

 敷地は高いですが、3メートルの堤防を追加しました。高台50メートルのところに空冷のディーゼル発電機を設置し、電源車4台も配置しました。さらに様々な季節に訓練を重ねております。

 震災時、道路が寸断されました。半島の皆さんが避難されてこられました。ゲートで検問していますが、雪がまい、津波で濡れた方も多かったので、所長の独断で避難してきた住民を受け入れましたが、最大で364人になりました。体育館で避難生活をしておりました。道路の寸断や家が流され、所員1500人がここに居たうえに住民を受け入れましたので、翌日から当社がヘリコプターを借りまして、水と食糧を空輸し、帰りには具合の悪くなった方を運んだ次第です。

 この後、加藤所長代理の案内で、防水を施した建屋、上乗せされた堤防、流された重油タンク跡、体育館、旧事務棟、高台に設けた空冷式ディーゼル発電機などを見ましたが、警備上の問題から写真撮影はできませんでした。

 

東北電力と女川原子力発電所の皆さんが安全確保のために努力されていることに敬意を表したいと思いますし、3メートルの津波想定に対し、15メートルの敷地高を決めた英断にも頭が下がります。

 お世話になりました所員の皆様には申し訳ないのですが、ここまで努力を重ねねば安全を確保できない原子力発電所って何なんだろうと素朴な疑問が強くなりました。原発から再生可能エネルギーへの転換を進めなければならないと改めて思いました。

 

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会派「かけはし」県外調査1日目(3)石巻地区消防本部  

2012年08月29日 | 日記

 最後の調査は石巻市地区広域行政事務組合消防本部です。調査時間は確保したともりでしたが、阿部さんや赤十字病院での調査は重いものでしたので、ついつい質問も多くなり、消防本部の皆さんを1時間も待たせてしまいました。本当にごめんなさい。

 消防署の前にはサイボーグ007の人形がありました。 

 出迎えていただいた星幸三郎消防長には「まだ800人の行方不明者がいる。消防署でも女川の署長以下2人見つかっていない。街中は見えるところまで復元できた。鳥取県の消防隊が南三陸で活躍していただき、50人の救助をしていただいた。29台の消防車が流されたが全国からの援助を頂いた。声をかけて、支えていただければと思います」と話していただきました。

 総務課の柴田淳也消防指令から説明をいただきましたが、以下はその概要です。

 管内の死者は4819人 行方不明904人と大きな被害が出た。

 30年以内に99%の確率で地震が起こると予想されて、被害想定をしていた。マグニチュードは8が9だった。1違うと30倍のエネルギーと桁違いだった。浸水面積は約7倍にも上った。人的被害の想定は130人だったから、いかに大きな被害だったか理解できると思う。

 門脇地区では火災が発生した。燃えた車両から55人の遺体を収用した。門脇小の児童は学校横の階段で裏山に逃げて被害はなかった。

 日本製紙石巻工場は震災前の8割の操業に戻った。主要産業の水産業も復旧の兆しが見えてきた。新北上大橋は落橋。10キロの迂回をしていたが、現在は仮の橋が架かった。大川小は108人の児童うち、74人が死亡、6人が行方不明。対岸の北上支所は6メートル。57人いたが、生存者は3人という悲惨な状態となった。その近くにある古浜小学校の児童は屋上に避難し、人的被害はなかった。16メートルの高さに女川町立病院があったが、津波はその一階まで到達した。

 ここは東北でも温暖な地域だが、震災の日、雪が降った。低体温症で多くの方が亡くなったのは、その気候が大きいと思う。

 女川消防署は津波避難ビルだった。消防車を高台に避難させた後、住民の避難に備えて、庁舎に5人の職員が戻った。ところが、見る見る水位があがり、5人屋上から、さらに無線塔へと登ったが、津波で流された漁船が無線塔にぶつかり、投げ出され、3人が死亡・行方不明、2人は大けがを負ったが現在は職務復帰している。まさかそこまでの高さまで来るとは思わなかった。消防署は車庫が高いので、屋上は3階建ての屋上と同じ。だが、1分30秒~2分で1階が水浸し、屋上も見る見る水に浸かった。15メートルよりも高かったのではないか。屋上では避難してきた住民の姿は見ていない。

 震災後のアンケートでは、避難するため職場を離れた人のうち、自宅に戻った人が33%、家族を捜しにいった人が25%いた。半数以上が避難していなかったのだ。これは生存者のデータで、犠牲になった人を含めるともっと多いと思う。

 「津波てんでんこ」という三陸の言い伝えは、地震が来れば地震が来るので、てんでんバラバラに逃げろと言う意味。各々が高台に行く。絆のつながりの強さが被害を拡大した。うちの子どもは必ず逃げているという信頼関係で、親も逃げる。それが、「津波てんでんこ」の教えだと思う。ソフト面の指導にも力を入れていく必要がある。

 想定外は今回が最後にしないといけない。消防長官の命令で、消防隊は44都道府県から東北へ駆けつけてくれた。16件の火災があったが、4件は対応しなかったが、5件は駆けつけることができず、7件は後に覚知した。発災後1週間の救急出動は629件。

 被害想定の三倍の津波により、庁舎、車両、職員が被災し、活動に制限が生じた。有線電話と携帯電話も途絶した。ガソリンスタンドが被災し、あるいは停電で機能しなかったため、車両燃料の確保にも苦慮した。惨事ストレスで休職した職員が出た。長い対応が必要になっている。

 今、地盤沈下による海抜0メートル地域が3.4倍に拡大した。106年分の瓦礫が発生した。瓦礫置き場から火災も発生。内部でくすぶって燃え、鎮火まで時間がかかる。発災から9件発生した。仮設住宅は消防水利が良いところばかりではない。それで、火災などの場合は、浄水タンクの利用を考えている。

 消防無線は有効な連絡手段となった。NTTの局舎がやられ、電話による119番が途絶したが、様々な手段で119番の連絡が入ってきた。消防車も被災したので緊急援助隊に現場での活動を任せ、職員はナビに徹した。ガソリンを国から送ったと連絡が来たが、20日間も届かなかった。加えて、消防署には一時600人が避難。隣の生協から食料などをボートで運び込んだ。

 防火防災から自然災害へも力を入れていく。特に避難に力を入れていく。浸水域にも街は作るが、避難はできるようにすることが大事。 

 非番の職員が招集で消防署に駆けつけるときに命を落としてはいけない。それで非常時は招集よりも、まず、自らで自らを守るようマニュアルを変更した。震災の時職員の安否確認は4日かかった。

 貴重な話ばかりで本当に参考になりました。

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会派「かけはし」県外調査1日目(2)石巻赤十字病院 

2012年08月29日 | 日記

次に訪れたのは石巻赤十字病院です。全国から駆けつけた医療スタッフを合同救護チームとして統括し、活動拠点となり、一躍全国に有名になった病院です。

 28の診療科を持つ452床の総合病院で、医師119人、看護師491人を含め、1207人の職員が働いています。震災後、市立病院など市内の医療機関がほとんど機能を失ったため、入院できない患者さんが出たため、臨時病棟を建て、50床増やしたそうです。市立病院などの職員も吸収したため、900人の職員が今は1200人に職員が増えているそうです。

  医療社会事業部の高橋洋子副部長からお話を伺いました。以下はその概要です。

 

 震災直後、周囲の田んぼが浸水し、水に浮かぶ病院になった。しかし、三陸自動車道は生きてて、患者を次々搬送してきた。この病院は5年前に新築。地震は必ず来るもとして建物も整備したし、準備、訓練を重ねてきたので、職員の高い災害意識があった。もちろん災害拠点病院の指定を受けていた。

 常設救護班を整備していたことも大きかった。今はDMATを付け加えた。新築でハード面がガラッと変わったことが支援に役立った。広いエントランスはトリアージの場所と想定して設計されている。

外来待合室の壁には酸素口や医療電源を設けていたが、想定通りに役立った。これは看護師のアイデア。現場を知っている人のアイデアが一番いい。

 訓練は机上シュミレーションを実施し、それを実働訓練に落とし、救護班から全職員で救護研修をするようになった。年平均500件の研修をしている。すると、マニュアルは文字が一杯で、わかりにくいと苦情が出て、ビジュアル化するなど改定を続けた。こうした小さな積み重ねが役立った。ヘリポートを持つ機関・病院で連携して訓練も続けていた。被災時は1日に何十機もヘリがホバーリングし、次々に着陸しては患者を搬送するような状況だったが、無事受け入れられた。震災後、これらの経験を基に本当の担当者のネットワーク協議会を立ち上げた。

  地震・津波の市内での被害予測では164人だったが、19021人死亡、3167人が行方不明となった。 阪神大震災は6308人だったことを考えるといかに大きな被害かわかると思う。女川町立病院は海抜16メートルのところだっTが、遡上高は36メートルだった。大川小は児童108人中70人が死亡、4人行方不明。職員も14人が死亡した。南浜では火災も発生した。

  赤十字病院は5分後に対策本部を立ち上げた。石巻の救急車は15台あったが、被災し、動けない。全国から駆けつけて翌日から患者を搬送し始めたことで、患者が急増した。阪神大震災ではクラッシュが負傷者の大半だったが、今回の急性期の患者はマイナス3度という気温のため低体温症が多かった。いわゆる津波肺も多かった。その結果、搬送されてきた時には、既に亡くなっている人が少なくなった。負傷者は軽傷が多かった。災害ごとに怪我は違う。思い込みはいけない。

  市内では赤十字病院だけが機能した。オーシャンビューとして市立病院は入院患者に人気があったが、災害時の立地としては問題だった。30年以内に99%の地震予想がある。現在、市役所の移転先として駅近くが検討されているが、水没した場所。立地はどうなのか疑問だ。

  災害時は行政が壊滅。職員も被災した。安否情報を求めてたくさんの被災者が病院に訪れた。食糧がないと報道されると、何トンという鶏肉、卵が全国から届いたが、被災者に配布する手立てがなかった。それが震災直後の石巻だった。何をどれくらい必要かということを正確に伝えることが重要だ。

 支援チームとして全国から3800チームが来た。石井先生は県の災害医療コーディネイターだったことは、各チームをコーディネイターすることに役だった。ロジスティクスの高橋邦治さん=写真左=も活躍した。

  宮城県全域だけでなく、北海道まで透析患者を搬送した。HOTセンターは、全国から在宅酸素療法機を集めて立ち上げた。在宅医療も、災害時は病院ですることになる。どんな薬を飲んでいたか、それが分かると治療も早い。携帯電話で薬の写真を撮っていた人がいたが、これはいいアイデアだと思った。 

 災害時医療マニュアルの改訂を進めている。研修のプログラムには、女川原発が近いことから新たに「被爆医療の基礎」と「衛星携帯の操作」を設けた。通信が途絶した中、衛星携帯電話は有効だった。

 250人の救護班を目指して体制整備も進めている。災害に強い地域づくりは病院だけでは無理。行政、病院、市民、業者の連携が大切だ。県内各機関と連携してトレーニングをしてきたことが役だった。市の機能は失われたが、市職員が数日間は張り付いてくれたことも、大きな力になった。私たちはメディアと丁寧に連携して情報を全国に発信した。マスコミ対応は大変だが、マスコミを味方にすると大きな力になる。

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会派「かけはし」県外調査1日目(1)街なか創生協議会

2012年08月29日 | 日記

会派「かけはし」は県外調査を実施しました。

鳥取空港を29日午前7時5分に離陸する全日空292便に搭乗し、東京でJR新幹線「はやて」に乗り継ぎ、仙台駅でレンタカーを借り、一路石巻へ向かいました。

  午後2時、鳥取を出てから7時間余り。最初の調査地「日和山公園」に到着しました。江戸時代の俳人松尾芭蕉も、この地を訪れ、奥の細道に「金花山、海上に見わたし、数百の廻船につどいひ、人家地をあらそいひて、竈の煙立つづけたり」と書き記している景勝の地ですが、今日は文学散歩で来たのではありません。石ノ森萬画館を石巻市に誘致し、まんがをモチーフに街作りを進めてきた阿部紀代子さんと、お会いして話をお聞きしたいとお願いしたところ、ここが街を一望できるので、ここで会いましょうと言われたらからです。

 

 青い空に白い入道雲が浮かび、真夏の太陽が照りつけていました。その下には津波で建物や街路樹が流され、雑草だけが生えた石巻の街が広がっていました。

  阿部さんは「震災後、3日目になって、社員や友人を捜しに、ここに登って来ました。海岸線に近い高台はここだけ。多くの市民がここに逃げてきていました。街を見わたすと、まだ火災の煙で、煙ったようでした」と話していただきました。お互いがお互いを探してぐるぐる回ったんだそうです。10分前に居ても、動けば会えません。そこで、伝言板を作ろうと思い立ったのですが、店の文房具はみな1階に置いていて、流されてできなかったんだそうです。

  「ここに避難した人たちは当初は食糧がなく、最初に配られたのは豆腐と油揚げ。油揚げをどうして食べたのでしょうかね」と阿部さんは話を続けます。この地区には市立の女子高校、県立高校、2つの中学校があり、避難所になったのですが、1袋のかっぱえびせん、1個のカップヌードルを家族で分けて食べていたそうです。「流されていく家族を何の手立てもなく、見ているしかなかった方も多いようです」とも話されました。実は被災から約2日間、石巻市は交通が遮断され、携帯と有線の電話も途絶し、外界から孤立し、情報を全く発信できなかったんだそうです。その結果、東松山市や南三陸町には救援物資が早い時期に届いたのに石巻には届かなかったそうです。確かに混乱と騒擾の最中だったと思いますが、全県に目配りをするのが県の役目です。鳥取県も他山の石にしてはならないと思いました。

  ポツンと見える大きな建物が市立病院です。

 地震と津波で機能が喪失し、今は仮設住宅がある地域で、仮設の診療所として治療活動を続けているそうです。「津波で電源を失ったため、懐中電灯で手術を続けたんだそうです」と阿部さん。 

 瓦礫の山も見えます。津波で出た瓦礫は、通常の石巻市なら100年分以上にもなるそうです。

 

津波で流されて廃車になった自動車も山積みです。

「今でもそこ、雑草で緑に見える地域は、震災前は住宅が所狭しと立ち並んでいました。震災直後は泥で、灰色一色の街でしたよ」と阿部さん。阿部さんが誘致した石ノ森萬画館の白い建物が残っていますが、周囲には自由の女神像を除いて何もありません。

すべて、津波が持っていったのです。阿部さんが、待ち合わせの場所をここに選んだ訳がよく分かりました。

  阿部さんには南浜地区も案内していただきました。火事で廃墟と化した門脇小です。

 

校舎脇の階段から高台へ逃げ、登校していた児童の被害はなかったそうです。校舎の時計は錆びたまま、針が止まっています。校舎に「門小ガッツ」と書かれていました。子どもたちが書いたのでしょうか、復興へ向け、子ども達も頑張っているんだなと感じました。

  校舎の前で、自分で被災した状況を撮影した写真を売っていたのは阿部美津夫さんです。

車の中に娘さんが取り残され、阿部さんに手を振りながら車ごと津波に流され、亡くなったのだそうです。阪神大震災で被災した神戸で育てられていたヒマワリの種をもらってきて、石巻に撒いて育てているのだそうです。「鳥取に持って帰って来春植えてくれんか」と言われ、ヒマワリの種をもらいました。娘さんが生きていた証として全国に広げたいという父親の思いが胸を打ちました。

  阿部さんの本業は大正2年創業の鰻屋「八幡屋」さんです。

  建物も津波に襲われ、2階へ上がって難を避けたそうです。「店の前の道路を津波が壁になって通り過ぎて行きました。津波が引き波になって速度が落ちると、道の左右に流れ込んでくるだろうと思いましたが、その通りになりました」と阿部さん。1階が水浸しになり、水位がさらに上がるので、2階へ上がり、これ以上上がるなら屋根へ逃げなければと思ったそうです。今は外壁を修復し、店は再開されています。

  道路を挟んで店の反対側になるのが「まちなか復興マルシェ」です。

ここで、この市場を立ち上げた石ノ森萬画館の指定管理者だった株式会社「街づくりまんぼう」の西條允敏社長からお話を聞きました。

 

  以下はその概要です。

  瓦礫、汚泥の撤去は昨年度内にだいたい終わった。しかし、お店で再開したのは30%くらい。新しく店を開けない、今のままでは辞めなければいけない、そういったお店を埋めないと、街は戻らないんです。それで昨年12月、街なか創生協議会を立ち上げた。民間主体で、すばやく、美しい街をつくるのが、その目的です。定住人口、交流人口を増やすことが最大の課題。そのキーワードは川、食、歴史と思っている。まちなか復興マルシェは短期計画。そして、ここ、中央2丁目11番地の街区再開発が中・長期計画だ。プチ市民プロジェクトも立ち上げた。私たちとみなさんのように縁を持った市外の人たちに登録してもらって応援団になってもらおうとう試みだ。

西條社長たちは11月の国際まんがサミットで鳥取を訪問する予定だそうで、再会を約して分かれました。

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父親は大変です

2012年08月25日 | 日記

 私の次男は中学2年生。ボーイズリーグで少年野球をしています。所属するチームが主催する少年野球の大会が開かれたので、今日、1日、縁の下の力持ち的な仕事をしていました。

 朝日新聞を辞めたはずなのに、朝日新聞の旗を外壁に沿って掲示し、布勢球場の開会式では日の丸、少年野球連盟旗、朝日新聞社旗を掲揚するタイムキーパーをし、鳥大グランドに場所を移し、会場設営や撤収、グランドキーパーやファールボーイを私を含め5人のお父さんと、6人のお母さんで全部するのだから大変です。

 特にファールボーイは、炎天下の日陰のないグランドの隅の椅子に約2時間腰かけているのですから大変です。日焼け止めを塗ったはずが、両腕は真っ赤になり、座っている椅子や腕時計が熱くなって火傷しそうになるなど大変でしたが、誰かがしないと大会は進みませんので、父親として頑張って次第です。

 残念ながら息子のチームは敗退しましたが、明日も1日、子どもたちの笑顔のために頑張りたいと思っています。 

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鳥取で開催された関西広域連合議会

2012年08月23日 | 日記

  関西広域連合の8月定例会が鳥取県議会の議場であり、鳥取県議会の山口享議員ら連合議員11人が一般質問されました。国出先機関の地方移管や道州制導入に関する質問が多かったようですが、首長間でも意見が分かれ、興味深く話をお聞きしました

  連合長の井戸敏三兵庫県知事は、連合が道州には進まないと設立の時に合意していると指摘したうえで、「道州制の定義が煮詰まっておらず、府県だ」と反対の立場のようでしたし、橋下徹大阪市長は「連合が道州にそのまま移行するものではない」としつつも、「導入は必要。地方を強化するため制度を一から作り直すべきで、選挙で決めるしかない」と賛成の立場を改めて強調されていました。

 連合議会終了後、各知事や連合議会議員、鳥取県議会議員らで懇親会があり、こちらにも参加させていただきました。鳥取県特産の酒造好適米「強力」を使った吟醸酒が、飲み物のカウンターにあることを見つけた私は、瓶ごともらい、他県の知事や府県議のみなさんに注いで回ったのですが、その間、おもしろい話がたくさんできしたのは大変有難く思いました。

 井戸知事には今春、豊岡を訪れ、山陰ジオパーク議連で意見交換会を開いたことを申し上げ、兵庫県は山陰の県でもあり、山陽の県でもあるのに、山陰ジオパークに冷たいのではと話を向けると、「決死してそんなことはない。ジオパーク議連の会合もお誘いがれば喜んで参加していましたよ」と予想もしないお話で、うれしくなりました。

 嘉田知事は京都精華大学の先生をしておられました。「私は朝日新聞の記者時代、京都精華大学で植生から京都の景観の変遷を研究しておられる先生によく取材したんですよ」と話すと、嘉田知事もよく知っておられて、景観保全で話が盛り上がりました。浜田議員、山口議員、私と知事の4人で話したのは、原発事故による琵琶湖の汚染です。滋賀県庁には福祉生活病院常任委員会の県外調査で滋賀県庁を訪れたときのことなどを紹介し、「原発事故が起こると放射能で琵琶湖が汚染されるのではと深く危惧している」と聞いても、滋賀県庁職員は「研究はこれから」と話され、危機が感ないのではと率直に申しました。

 仁坂和歌山県知事が、東京一極集中に本当に強い危機感を持たれていることも印象的でした。和歌山にできることではなく、和歌山にしかできないこと、鳥取にできることではなく、鳥取にしかできないことを、見つけて、しっかり応援していくのが県であり、県議会であると話され、私も全く同感ですと返事をしたのですが、話せば話すほど、私と思いが一緒だなと思い、意を強くしました。

 会の終了後は、ジオパーク議連で豊岡を訪れたときに、大変お世話になった日村さんら、兵庫県議会議員の皆さんと二次会へ行きましたが、話は地域の経済を元気しなければいけないが、ジオパークを活かしていくことが山陰には必要ではなどと意見交換は続き、本当に勉強になった1日でした。

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終戦記念日に思う日韓間関係

2012年08月15日 | 日記

 67回目の終戦記念日は、李韓国大統領の一連の言動で揺れましたが、沖縄戦で負傷した住民や遺族40人が謝罪や賠償を求めて那覇地裁に提訴したことも、大きな出来事だったと思います。

 戦争での民間被害に対して国の責任を追及した訴訟は、東京と大阪の空襲被害者に次いで三例目だと報道されていましたが、沖縄戦は空襲被害とはいささか状況が異なります。それは、日本兵が洞窟や墓などの逃げ込んだ住民を、そこから追い出して陣地にしたり、男子生徒は鉄血勤皇隊、女子生徒はひめゆり部隊などとして、戦地に借り出したりしたことです。住民を守った部隊もあったのですが、そうではなく、部隊の行動で、住民が命を奪われたり、負傷されたといったこともあったからです。

 そして、戦後、沖縄は米国領となり、今も米軍基地が沖縄に集中しています。私は記者時代、何度も沖縄を取材で訪れ、戦争被害について聞き取りをさせていただき、ガマ(洞窟)などの戦績も見学させていただきましたので、今回の提訴の記事が大きなものに思えました。

 「命(イヌチ)どゅ宝」(命こそが宝)という言葉を、今一度噛みしめ、日韓関係を含め、いつか来た道を戻ることなく、未来志向で平和を守っていかなければならないと思いを新たにしています。

 

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渡辺美術館で藤原芳秀原画展が開催中

2012年08月12日 | 日記

  鳥取市覚寺の渡辺美術館で9月17日まで、国際まんが博覧会のイベントのひとつとして、「藤原芳秀原画展『闇のイージス・三国志・拳児」が開催されています。藤原さんが里帰りして12日、同館の渡辺憲館長、平井知事と3人でトークショー&サイン会を開催されるので、私も、国際まんが博覧会のポロシャツを着て、参加させていただきました。

 中央が藤原さん、右が渡辺さん、左が平井知事です。

 藤原さんは鳥取市河原町出身。鳥取西工業高校(現・鳥取湖陵高校)在学中に、「魔利巣(マリス)」で、小学館新人コミック対象に入選。池上遼一氏のアシスタントを経て、「私立終点高校」でデビューを飾ります。「拳児」「ジーザス」「闇のイージス」などを相次いで発表した人気漫画家です。

 トークショーでは会場から新作の発表などについて、藤原さんに質問が出ましたが、ひとつひとつ丁寧に答えておられました。

最後に砂に手形を押されました。国際まんが博覧会では、トリンドル玲奈さんについで2人目の砂の手形だそうで、ドリームワールドの倉吉会場で展示される予定です。

ちなみに、ドリームワールドの鳥取会場での開始は14日までです。入場は無料です。どうぞ、鳥取市伏勢の県民大会へ、どうぞおいで下さい。たくさんのまんがの主人公たちがみなさんをお待ちしています。

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しゃんしゃん祭りが開幕

2012年08月11日 | 日記

 鳥取の夏の風物詩「しゃんしゃん祭」りが始まりました。

 私はまんが博覧会のポロシャツを着て若桜街道であったオープニング・イベントに参加させていただいましたが、平井知事も色違いのポロシャツを着ておられ、苦笑いです。なんとか博覧会を成功させたいと祈っていますし、そのためには、地元絵での盛り上がりが一番と思います。小さなことですが、それで、私はできるだけ、まんが博覧会のポロシャツを着ています。まんが博覧会のメインイベントであるドリームワールドは14日まで伏勢の県民体育館で開催中です。無料ですので、是非一度、足をお運びください。

 さて、しゃんしゃん祭りです。しゃんしゃん祭りは15日までをしゃんしゃんウィークとして、様々な行事が予定されていますが、14日の一斉踊りと、15日の市民納涼花火大会がメインです。私も子どもが帰省するので、一緒に楽しめたらと思っています(親バカですね)

 オープニング・イベントではしゃんしゃん鈴の音大使の引き継ぎがありました。

1年間の務めを終えた13代大使の皆さんには、14代大使から花束が贈呈されました。13代大使の皆さん、お疲れさまでした。

13代からタスキを受け取ったのは14代大使の3人です。就任のあいさつの中では「PR力がないので、私が頑張る」という決意を披歴した大使もいて、頼もしく思いました。14代大使の皆さん、1年間、鳥取の全国発信を、よろしくお願いします。

 

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すし銀でJAZZ堪能。20日はミュゼで夕暮れコンサートがあります

2012年08月09日 | 日記

 弥生町のすし銀でJAZZのライブがあり、大将の近藤さんに招かれたこともあり、行ってきました。

ピアノ、ベース、ドラムの3人組の演奏で、楽しい演奏でスイングするようでした。

CDで聞くのもいいのですが、やはり、音楽はライブに限ります。ここのところ、根を詰めて仕事をしていましたので、いい息抜きができたように思います。

 

 県立博物館のレストラン「カフェ・ダール・ミュセ」でも、今月20日午後6時から、夕暮れコンサートが開催されます。

出演は「蓮 REN」。尺八:中村仁樹、20弦琴:衣袋聖志のイケメンの邦楽ペアーです。

ミュゼは、東京大学と女子栄養大学で教鞭を採るレストラン・コーディネイターの河崎妙子さんのお店で、地産地消にこだわった美味しい料理が堪能できます。

会費はコンサート、ミュゼでのディナー(ドリンク含む)がセットで4500円です。

完全予約制なので希望者はミュゼ(0857-20-2520)で、ご予約ください。

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