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すなば たかひろ

「元気で人に優しい鳥取」を取り戻すため、県議になった元新聞記者の挑戦記。みんなで鳥取の未来像を考えましょう!

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会派「かけはし」県外調査1日目(3)石巻地区消防本部  

2012年08月29日 | 日記

 最後の調査は石巻市地区広域行政事務組合消防本部です。調査時間は確保したともりでしたが、阿部さんや赤十字病院での調査は重いものでしたので、ついつい質問も多くなり、消防本部の皆さんを1時間も待たせてしまいました。本当にごめんなさい。

 消防署の前にはサイボーグ007の人形がありました。 

 出迎えていただいた星幸三郎消防長には「まだ800人の行方不明者がいる。消防署でも女川の署長以下2人見つかっていない。街中は見えるところまで復元できた。鳥取県の消防隊が南三陸で活躍していただき、50人の救助をしていただいた。29台の消防車が流されたが全国からの援助を頂いた。声をかけて、支えていただければと思います」と話していただきました。

 総務課の柴田淳也消防指令から説明をいただきましたが、以下はその概要です。

 管内の死者は4819人 行方不明904人と大きな被害が出た。

 30年以内に99%の確率で地震が起こると予想されて、被害想定をしていた。マグニチュードは8が9だった。1違うと30倍のエネルギーと桁違いだった。浸水面積は約7倍にも上った。人的被害の想定は130人だったから、いかに大きな被害だったか理解できると思う。

 門脇地区では火災が発生した。燃えた車両から55人の遺体を収用した。門脇小の児童は学校横の階段で裏山に逃げて被害はなかった。

 日本製紙石巻工場は震災前の8割の操業に戻った。主要産業の水産業も復旧の兆しが見えてきた。新北上大橋は落橋。10キロの迂回をしていたが、現在は仮の橋が架かった。大川小は108人の児童うち、74人が死亡、6人が行方不明。対岸の北上支所は6メートル。57人いたが、生存者は3人という悲惨な状態となった。その近くにある古浜小学校の児童は屋上に避難し、人的被害はなかった。16メートルの高さに女川町立病院があったが、津波はその一階まで到達した。

 ここは東北でも温暖な地域だが、震災の日、雪が降った。低体温症で多くの方が亡くなったのは、その気候が大きいと思う。

 女川消防署は津波避難ビルだった。消防車を高台に避難させた後、住民の避難に備えて、庁舎に5人の職員が戻った。ところが、見る見る水位があがり、5人屋上から、さらに無線塔へと登ったが、津波で流された漁船が無線塔にぶつかり、投げ出され、3人が死亡・行方不明、2人は大けがを負ったが現在は職務復帰している。まさかそこまでの高さまで来るとは思わなかった。消防署は車庫が高いので、屋上は3階建ての屋上と同じ。だが、1分30秒~2分で1階が水浸し、屋上も見る見る水に浸かった。15メートルよりも高かったのではないか。屋上では避難してきた住民の姿は見ていない。

 震災後のアンケートでは、避難するため職場を離れた人のうち、自宅に戻った人が33%、家族を捜しにいった人が25%いた。半数以上が避難していなかったのだ。これは生存者のデータで、犠牲になった人を含めるともっと多いと思う。

 「津波てんでんこ」という三陸の言い伝えは、地震が来れば地震が来るので、てんでんバラバラに逃げろと言う意味。各々が高台に行く。絆のつながりの強さが被害を拡大した。うちの子どもは必ず逃げているという信頼関係で、親も逃げる。それが、「津波てんでんこ」の教えだと思う。ソフト面の指導にも力を入れていく必要がある。

 想定外は今回が最後にしないといけない。消防長官の命令で、消防隊は44都道府県から東北へ駆けつけてくれた。16件の火災があったが、4件は対応しなかったが、5件は駆けつけることができず、7件は後に覚知した。発災後1週間の救急出動は629件。

 被害想定の三倍の津波により、庁舎、車両、職員が被災し、活動に制限が生じた。有線電話と携帯電話も途絶した。ガソリンスタンドが被災し、あるいは停電で機能しなかったため、車両燃料の確保にも苦慮した。惨事ストレスで休職した職員が出た。長い対応が必要になっている。

 今、地盤沈下による海抜0メートル地域が3.4倍に拡大した。106年分の瓦礫が発生した。瓦礫置き場から火災も発生。内部でくすぶって燃え、鎮火まで時間がかかる。発災から9件発生した。仮設住宅は消防水利が良いところばかりではない。それで、火災などの場合は、浄水タンクの利用を考えている。

 消防無線は有効な連絡手段となった。NTTの局舎がやられ、電話による119番が途絶したが、様々な手段で119番の連絡が入ってきた。消防車も被災したので緊急援助隊に現場での活動を任せ、職員はナビに徹した。ガソリンを国から送ったと連絡が来たが、20日間も届かなかった。加えて、消防署には一時600人が避難。隣の生協から食料などをボートで運び込んだ。

 防火防災から自然災害へも力を入れていく。特に避難に力を入れていく。浸水域にも街は作るが、避難はできるようにすることが大事。 

 非番の職員が招集で消防署に駆けつけるときに命を落としてはいけない。それで非常時は招集よりも、まず、自らで自らを守るようマニュアルを変更した。震災の時職員の安否確認は4日かかった。

 貴重な話ばかりで本当に参考になりました。

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会派「かけはし」県外調査1日目(2)石巻赤十字病院 

2012年08月29日 | 日記

次に訪れたのは石巻赤十字病院です。全国から駆けつけた医療スタッフを合同救護チームとして統括し、活動拠点となり、一躍全国に有名になった病院です。

 28の診療科を持つ452床の総合病院で、医師119人、看護師491人を含め、1207人の職員が働いています。震災後、市立病院など市内の医療機関がほとんど機能を失ったため、入院できない患者さんが出たため、臨時病棟を建て、50床増やしたそうです。市立病院などの職員も吸収したため、900人の職員が今は1200人に職員が増えているそうです。

  医療社会事業部の高橋洋子副部長からお話を伺いました。以下はその概要です。

 

 震災直後、周囲の田んぼが浸水し、水に浮かぶ病院になった。しかし、三陸自動車道は生きてて、患者を次々搬送してきた。この病院は5年前に新築。地震は必ず来るもとして建物も整備したし、準備、訓練を重ねてきたので、職員の高い災害意識があった。もちろん災害拠点病院の指定を受けていた。

 常設救護班を整備していたことも大きかった。今はDMATを付け加えた。新築でハード面がガラッと変わったことが支援に役立った。広いエントランスはトリアージの場所と想定して設計されている。

外来待合室の壁には酸素口や医療電源を設けていたが、想定通りに役立った。これは看護師のアイデア。現場を知っている人のアイデアが一番いい。

 訓練は机上シュミレーションを実施し、それを実働訓練に落とし、救護班から全職員で救護研修をするようになった。年平均500件の研修をしている。すると、マニュアルは文字が一杯で、わかりにくいと苦情が出て、ビジュアル化するなど改定を続けた。こうした小さな積み重ねが役立った。ヘリポートを持つ機関・病院で連携して訓練も続けていた。被災時は1日に何十機もヘリがホバーリングし、次々に着陸しては患者を搬送するような状況だったが、無事受け入れられた。震災後、これらの経験を基に本当の担当者のネットワーク協議会を立ち上げた。

  地震・津波の市内での被害予測では164人だったが、19021人死亡、3167人が行方不明となった。 阪神大震災は6308人だったことを考えるといかに大きな被害かわかると思う。女川町立病院は海抜16メートルのところだっTが、遡上高は36メートルだった。大川小は児童108人中70人が死亡、4人行方不明。職員も14人が死亡した。南浜では火災も発生した。

  赤十字病院は5分後に対策本部を立ち上げた。石巻の救急車は15台あったが、被災し、動けない。全国から駆けつけて翌日から患者を搬送し始めたことで、患者が急増した。阪神大震災ではクラッシュが負傷者の大半だったが、今回の急性期の患者はマイナス3度という気温のため低体温症が多かった。いわゆる津波肺も多かった。その結果、搬送されてきた時には、既に亡くなっている人が少なくなった。負傷者は軽傷が多かった。災害ごとに怪我は違う。思い込みはいけない。

  市内では赤十字病院だけが機能した。オーシャンビューとして市立病院は入院患者に人気があったが、災害時の立地としては問題だった。30年以内に99%の地震予想がある。現在、市役所の移転先として駅近くが検討されているが、水没した場所。立地はどうなのか疑問だ。

  災害時は行政が壊滅。職員も被災した。安否情報を求めてたくさんの被災者が病院に訪れた。食糧がないと報道されると、何トンという鶏肉、卵が全国から届いたが、被災者に配布する手立てがなかった。それが震災直後の石巻だった。何をどれくらい必要かということを正確に伝えることが重要だ。

 支援チームとして全国から3800チームが来た。石井先生は県の災害医療コーディネイターだったことは、各チームをコーディネイターすることに役だった。ロジスティクスの高橋邦治さん=写真左=も活躍した。

  宮城県全域だけでなく、北海道まで透析患者を搬送した。HOTセンターは、全国から在宅酸素療法機を集めて立ち上げた。在宅医療も、災害時は病院ですることになる。どんな薬を飲んでいたか、それが分かると治療も早い。携帯電話で薬の写真を撮っていた人がいたが、これはいいアイデアだと思った。 

 災害時医療マニュアルの改訂を進めている。研修のプログラムには、女川原発が近いことから新たに「被爆医療の基礎」と「衛星携帯の操作」を設けた。通信が途絶した中、衛星携帯電話は有効だった。

 250人の救護班を目指して体制整備も進めている。災害に強い地域づくりは病院だけでは無理。行政、病院、市民、業者の連携が大切だ。県内各機関と連携してトレーニングをしてきたことが役だった。市の機能は失われたが、市職員が数日間は張り付いてくれたことも、大きな力になった。私たちはメディアと丁寧に連携して情報を全国に発信した。マスコミ対応は大変だが、マスコミを味方にすると大きな力になる。

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会派「かけはし」県外調査1日目(1)街なか創生協議会

2012年08月29日 | 日記

会派「かけはし」は県外調査を実施しました。

鳥取空港を29日午前7時5分に離陸する全日空292便に搭乗し、東京でJR新幹線「はやて」に乗り継ぎ、仙台駅でレンタカーを借り、一路石巻へ向かいました。

  午後2時、鳥取を出てから7時間余り。最初の調査地「日和山公園」に到着しました。江戸時代の俳人松尾芭蕉も、この地を訪れ、奥の細道に「金花山、海上に見わたし、数百の廻船につどいひ、人家地をあらそいひて、竈の煙立つづけたり」と書き記している景勝の地ですが、今日は文学散歩で来たのではありません。石ノ森萬画館を石巻市に誘致し、まんがをモチーフに街作りを進めてきた阿部紀代子さんと、お会いして話をお聞きしたいとお願いしたところ、ここが街を一望できるので、ここで会いましょうと言われたらからです。

 

 青い空に白い入道雲が浮かび、真夏の太陽が照りつけていました。その下には津波で建物や街路樹が流され、雑草だけが生えた石巻の街が広がっていました。

  阿部さんは「震災後、3日目になって、社員や友人を捜しに、ここに登って来ました。海岸線に近い高台はここだけ。多くの市民がここに逃げてきていました。街を見わたすと、まだ火災の煙で、煙ったようでした」と話していただきました。お互いがお互いを探してぐるぐる回ったんだそうです。10分前に居ても、動けば会えません。そこで、伝言板を作ろうと思い立ったのですが、店の文房具はみな1階に置いていて、流されてできなかったんだそうです。

  「ここに避難した人たちは当初は食糧がなく、最初に配られたのは豆腐と油揚げ。油揚げをどうして食べたのでしょうかね」と阿部さんは話を続けます。この地区には市立の女子高校、県立高校、2つの中学校があり、避難所になったのですが、1袋のかっぱえびせん、1個のカップヌードルを家族で分けて食べていたそうです。「流されていく家族を何の手立てもなく、見ているしかなかった方も多いようです」とも話されました。実は被災から約2日間、石巻市は交通が遮断され、携帯と有線の電話も途絶し、外界から孤立し、情報を全く発信できなかったんだそうです。その結果、東松山市や南三陸町には救援物資が早い時期に届いたのに石巻には届かなかったそうです。確かに混乱と騒擾の最中だったと思いますが、全県に目配りをするのが県の役目です。鳥取県も他山の石にしてはならないと思いました。

  ポツンと見える大きな建物が市立病院です。

 地震と津波で機能が喪失し、今は仮設住宅がある地域で、仮設の診療所として治療活動を続けているそうです。「津波で電源を失ったため、懐中電灯で手術を続けたんだそうです」と阿部さん。 

 瓦礫の山も見えます。津波で出た瓦礫は、通常の石巻市なら100年分以上にもなるそうです。

 

津波で流されて廃車になった自動車も山積みです。

「今でもそこ、雑草で緑に見える地域は、震災前は住宅が所狭しと立ち並んでいました。震災直後は泥で、灰色一色の街でしたよ」と阿部さん。阿部さんが誘致した石ノ森萬画館の白い建物が残っていますが、周囲には自由の女神像を除いて何もありません。

すべて、津波が持っていったのです。阿部さんが、待ち合わせの場所をここに選んだ訳がよく分かりました。

  阿部さんには南浜地区も案内していただきました。火事で廃墟と化した門脇小です。

 

校舎脇の階段から高台へ逃げ、登校していた児童の被害はなかったそうです。校舎の時計は錆びたまま、針が止まっています。校舎に「門小ガッツ」と書かれていました。子どもたちが書いたのでしょうか、復興へ向け、子ども達も頑張っているんだなと感じました。

  校舎の前で、自分で被災した状況を撮影した写真を売っていたのは阿部美津夫さんです。

車の中に娘さんが取り残され、阿部さんに手を振りながら車ごと津波に流され、亡くなったのだそうです。阪神大震災で被災した神戸で育てられていたヒマワリの種をもらってきて、石巻に撒いて育てているのだそうです。「鳥取に持って帰って来春植えてくれんか」と言われ、ヒマワリの種をもらいました。娘さんが生きていた証として全国に広げたいという父親の思いが胸を打ちました。

  阿部さんの本業は大正2年創業の鰻屋「八幡屋」さんです。

  建物も津波に襲われ、2階へ上がって難を避けたそうです。「店の前の道路を津波が壁になって通り過ぎて行きました。津波が引き波になって速度が落ちると、道の左右に流れ込んでくるだろうと思いましたが、その通りになりました」と阿部さん。1階が水浸しになり、水位がさらに上がるので、2階へ上がり、これ以上上がるなら屋根へ逃げなければと思ったそうです。今は外壁を修復し、店は再開されています。

  道路を挟んで店の反対側になるのが「まちなか復興マルシェ」です。

ここで、この市場を立ち上げた石ノ森萬画館の指定管理者だった株式会社「街づくりまんぼう」の西條允敏社長からお話を聞きました。

 

  以下はその概要です。

  瓦礫、汚泥の撤去は昨年度内にだいたい終わった。しかし、お店で再開したのは30%くらい。新しく店を開けない、今のままでは辞めなければいけない、そういったお店を埋めないと、街は戻らないんです。それで昨年12月、街なか創生協議会を立ち上げた。民間主体で、すばやく、美しい街をつくるのが、その目的です。定住人口、交流人口を増やすことが最大の課題。そのキーワードは川、食、歴史と思っている。まちなか復興マルシェは短期計画。そして、ここ、中央2丁目11番地の街区再開発が中・長期計画だ。プチ市民プロジェクトも立ち上げた。私たちとみなさんのように縁を持った市外の人たちに登録してもらって応援団になってもらおうとう試みだ。

西條社長たちは11月の国際まんがサミットで鳥取を訪問する予定だそうで、再会を約して分かれました。

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