石巻市や女川町では、まだホテル等の復旧が進んでおらず、復旧した所も、復旧作業やボランティアが宿泊されており、宿の予約を取ることができず、東松島市まで戻ってホテルチェックイン。ベッドで寝ていると激しい揺れに襲われ、目を覚ましました。時計を見ると午前4時5分でした。携帯電話に届いたニュースメールによると宮城県沖を震源とする地震があり、東松島市は震度5弱とのこと。震災復興の調査に来て、地震に会うのも不思議な感じです。
この日は、女川原発から調査を再開する予定でした。地震後の安全確認などで調査の対応どころではないのではないかと思い、女川原発に電話を架けると「地震の影響は全くなく、職員に招集をかけることなく、通常と同じです。どうぞ、いらして下さい」とのこと。それで女川原発に向かって出発したのですが、三陸自動車道は車が数珠繋ぎでほとんど動いていません。それで、高速自動車道ではなく、下道で原発に向かいました。
原発のゲートでは一人一人事前に届け出た書類を運転免許証で確認。自動車のトランクや車体の下まで確認して、やっと入構証をもらい、中にいれていただきました。事務等では津幡俊上席執行役員兼女川原子力発電所長、加藤功所長代理らに出迎えていただきました。
会議室で調査を開始です。まず 津幡所長からお話を聞きました。
以下はその概要です。
女川原発はもっとも震源地に近かった原発で、本当に大きな地震でしたが、設備に問題なく、冷温停止できました。また、原発の周辺の集落も津波に襲われ、原発が冷温停止していることから、避難してこられましたので、一緒に震災を乗り切りました。このため、多くの新聞等に取り上げていただきました。先日、7月30日にはIAEAの専門家が約20名が約10日間調査され、評価いただいたところです。地震の大きさは、設計値を超えるものもございましたので、現在、所員ら2000人がシビルアクシデント対策のための作業をしています」と挨拶していただきました。
詳細説明は加藤所長代理からお聞きしました。
以下はその説明の概要です。
女川原発は震源から130キロと地番近かった原発ですが、問題なく冷温停止できました。なぜそうなったのか、その理由を説明します。東北電力は東北と新潟に電力を供給していますが、その管内に東京電力さんも3カ所大きな原子力発電所を持っています。震災前28%が原子力で発電していましたが、現在はゼロ。これが電力各社と同様に経営を圧迫しています。
地震よりも津波で東北電力の太平洋側の発電所は大きな被害を受けました。八戸(石油)は3月中、仙台火力(ガス)、新仙台ガス(ガス・石油)は年末までに再開。そして、原町(石炭)は大きな被害を受け、懸命の復旧作業中ですが来年夏の再開を目指しています。東通の原子力発電所は被害は軽微で、検査も終え、運転を再開しようと思えばいつでもできる状況です。
女川は敷地が高いことから被害は軽微でした。今、いるところは昨年11月に完成した事務新館です。免震構造の8階建てで、震災時はガラスも入っていましたが、1枚も割れませんでした。古い事務棟も耐震補強をやっていたおかげで、機能が維持されました。建物が載っている敷地の高さは約15メートル。津波の高さは13メートルで端的に言えば、このため被害を防げたわけです。
海岸、岸壁といった低い部分には何も置いていなかったのですが、福島原発はポンプなど低いところに置いていました。女川原発は高い所にある敷地にピットというくぼみ穴を掘って、そこに置いています。
女川町は港から入った津波がすべての建物を押し流した。1万の人口の1割が亡くなった。ここには東電の社宅もありましたが、すべてなくなりました。
震災が起こったときの状態です。1号機と3号機は100%の運転中でした。2号機は運命的と申しましょうか、定期検査を終え、これから運転するぞと3月11日14時に起動を開始しました。起動とは核分裂を始めさせることです。そして、14時46分に地震が起こると同時に、3機とも自動停止いたしました。原子炉の安全上重要なのは止める、冷やす、閉じ込めるとよく言います。核反応を止めて、核燃料から出てくる余熱が非常に大きいので、これを冷やしてやる。福島では冷やすことができず、余熱で燃料棒が溶けるという状況になりました。そして、放射性物質を閉じ込めるということです。女川では、止める、冷やすがうまくいって、放射性物質も閉じ込めることができました。実は12日深夜、女川のモニタリングポストが通常の1000倍の数値を記録したんですが、これは福島の水蒸気爆発の結果であって、女川原発では止める、冷やす、閉じ込めるが問題なくなされました。
女川原発の地震による被害ですが、1号機の高圧電源盤、大きなスイッチと考えていただければいいんですが、安全とは全く関係のないスイッチなんですが、これがショートを起こして、焼損いたしました。海岸にある重油用のタンク、施設の暖房などに使う安全に関係ないものですが、これが津波で浮いてひっくり返りました。2号機ですが下の方から津波が侵入し、機器の交渉が起こりました。
福島では外部電源が遮断され、非常用発電機が浸水し、電気を出していく配線の盤が海水に浸かり、水と電気は組み合わせが悪いものですから、電源が全くなくなってしまった。女川では非常用電源は8機中6機は健全でした。外部電源は5系統ありましたが、1回線は正常で必要な電源は確保されていました。2回線は12日、1回線は17日、のこる1回線も26日復旧しました。
男鹿半島全体が均衡に1メートル沈降しましたので、14.8メートルの敷地は13.8メートルになり、13メートルの津波が襲ったわけですが、それでも敷地よりも高かったわけです。港湾は2.5メートルでしたので重油タンクに被害が出ました。
女川原発で安全が確保できた理由は、敷地の高さであり、電源の確保です。しかし、それだけではなく、様々な耐震対策を続けてきた結果でもあります。耐震裕度を増すために、震災前に1号機から3号機までで6600カ所に筋交いを入れました。また、中越沖地震を踏まえ、耐震構造の事務棟を建設していましたが、それまでの間、旧事務棟にも耐震工事をするなど様々な対策を講じ、訓練を重ねてきたことが適格な対応となりまして、あれほど大きな地震でありましたが安全を確保できたと思います。
なんで15メートルという敷地の高さにしたのかということに一番の興味があると思いますが、それを説明します。1号機が建設された昭和40年代、貞観津波などの様々な津波を調べまして、さらに、ここが外海に面していますことから、津波の想定は3メートルでした。ところが、ここからが先輩達がいい判断をしたと思うんですが、三陸は過去、大きな津波を何度も襲っていることから、我々の知識には限界がある。10メートルは譲れないだろうということになり、10メートルになんぼ余裕を持たせるかという議論をして、積み上げて15メートルに致しました。想定の3メートルの5倍というわけではありません。
その後、昭和62年には電算機によるシュミレーションや考古学的知見も増え、津波想定が9.1メートルになりましたので、9.7メートルまで法面をコンクリートで固めました。
敷地は高いですが、3メートルの堤防を追加しました。高台50メートルのところに空冷のディーゼル発電機を設置し、電源車4台も配置しました。さらに様々な季節に訓練を重ねております。
震災時、道路が寸断されました。半島の皆さんが避難されてこられました。ゲートで検問していますが、雪がまい、津波で濡れた方も多かったので、所長の独断で避難してきた住民を受け入れましたが、最大で364人になりました。体育館で避難生活をしておりました。道路の寸断や家が流され、所員1500人がここに居たうえに住民を受け入れましたので、翌日から当社がヘリコプターを借りまして、水と食糧を空輸し、帰りには具合の悪くなった方を運んだ次第です。
この後、加藤所長代理の案内で、防水を施した建屋、上乗せされた堤防、流された重油タンク跡、体育館、旧事務棟、高台に設けた空冷式ディーゼル発電機などを見ましたが、警備上の問題から写真撮影はできませんでした。
東北電力と女川原子力発電所の皆さんが安全確保のために努力されていることに敬意を表したいと思いますし、3メートルの津波想定に対し、15メートルの敷地高を決めた英断にも頭が下がります。
お世話になりました所員の皆様には申し訳ないのですが、ここまで努力を重ねねば安全を確保できない原子力発電所って何なんだろうと素朴な疑問が強くなりました。原発から再生可能エネルギーへの転換を進めなければならないと改めて思いました。