『『猫』と私 / 田辺聖子』
※漱石全集 第7巻 (1994年6月9日発行) の月報7に掲載
これによると、田辺氏は面白くて面白くて笑いながら夢中になって『吾輩……』を読んだ、ということだ。
具体的には、
『……私は朝から晩まで『吾輩……』に読みふけり、面白くてたまらなかった。』
『読みながらあんまり私が笑うので、それがまた家族の笑いを買ってしまった。』
『ほとんどページごとにくつくつ笑っていた気がする。』
『だから『吾輩……』を読んで声立てて笑っているのを笑われ、……』
これに限らず『吾輩……』に対するこのような評価、感想は数限りなくある。
面白い、とにかく笑った、と。
私にとっても『吾輩……』は面白い小説ではある。
ただあくまでも、有益で読みごたえがあるという意味での面白さだ。
語り手の猫、つまりは漱石の博識と慧眼にただただ恐れ入るばかり。
まるで知の宝庫。
笑ったという感想には違和感がある。
「あふれ出る言葉と知識」を前にして笑ってる場合かよ、おい?
と、そういう作品だ。
漱石に「あんた読み方間違ってるよ」と言われるかも知れないが、まぁ私はそのように思う。
『吾輩は猫である』は全部で11話構成となっている。
その中で第1話だけは高浜虚子によって手が加えられたと言われている。
確かに他の話に比べると、行儀よく無難にまとめられた感がある。
その代わりに、登場人物の饒舌さやキャラ立ちが物足りない。
「笑った」という感想も、その多くは第2話以降によるものではないだろうか?
それでその、実はここからが本題なのだけれど、前記事「Rolling Stones」の続き。
目の上のたん瘤が創作活動には必要なのか? ということについて。
例えば、とても面白いテレビドラマだったのに、シーズン2、番外編、特別版、あるいは映画等の制作において、監督や脚本家など特定の人に大きな権限があたえられた結果、面白くないものが出来上がってしまった、という事がよくある。
具体的な作品名を挙げれば「あーなるほどね」と納得してもらえると思う。
残念ながら、挙げられないけれど。
非常に多い。
やはりクリエイターには目の上のたん瘤が必要なのでは? という事になりそうなのだけれど、そうではない。
必要な人もいれば必要でない人もいる。
なぜなら、漱石の『吾輩は猫である』のような例もあるから。
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2021/12/13 最終更新
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