さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

インド放浪 本能の空腹35 神から与えられし使命

2021-09-16 | インド放浪 本能の空腹



30年近く前、私のインド放浪、当時つけていた日記をもとにお送りいたしております。


**********************


 おれがインドでしたかったこと、どこか海辺の街で腰を据え、友人や顔見知りを作り、その街の住人の一人のようになってしばらく過ごしたい、という夢はかなった。その一方、インドの全てが凝縮しているような街、喧騒と混沌の極みのような街、都市文明化の失敗作の街、世界で最も汚い街、物乞いとポン引きのあふれる街、カルカッタ、この街で普通に過ごせるようにならなければインドを旅したなどと言えない、そう思っていた。そして今、おれはもはやこの街に随分と溶け込んでいる、もう十分だ、いつ日本へ帰ってもいいはずだった。

 街中にいる物乞い、もしおれがあの中の一人になったとしても、日々生きて行くだけならば、おそらくは生きて行けるだろう、もちろん本気でそうなりたいなどとは思っていなかったが、そんな考えが度々頭をよぎるようになっていた。

 『死』

 についても考えることが多くなった。なにせ、街には死んでいるのか生きているのかわからないような奴がそこらに横たわっているのだ、一人でそんな街を毎日歩いていれば、死、を意識しないわけにも行かない。

 『死』

 は、怖いと思わなくなっていた。だが、万一パスポートなどを失い、自分の身分を証明できるものが無い状態で死ぬ、そうなれば、家族、結婚を誓っていたK子、おれが死んでいるのか生きているのかさえわからない、自分の死を、自分を想う人たちに知らせられない、それはとても恐ろしいことだ、そう思うようになっていた。それが、ちょっと気を抜けばこの街と同化してしまいそうな自分を押さえていた。

 飯を手で口に入れる、食ったものを排泄した後は、また手で直接洗う、人間の生きる基本、食うこと、出すこと、を自らの手でする、なんとあからさまな行為なのだろう、そう、ここにいる連中は皆あからさまだ、人の生きる原点がここにあるのだ。

 そして、そういった人の生きる原点のような街に、自分が飲み込まれそうになっていることに、おれはまだ気づいてはいないようだった。

 おれはこの頃クリスチャンであった。通っていた教会は割と大きな教会だった。その教会に、Mさんという、東大の大学院に通う美しい女性がいた。5つほど年下だったおれや、おれの仲間の高校生の男どもの憧れの女性だった。
 東大の大学院を卒業したMさん、その高学歴であれば就職の選択肢も、おれなどに比べればはるかに多かっただろう、だが、Mさんの選択した道は、一流企業でも高級官僚でもなかった、バングラデシュのダッカで、貧しい人々、子どもたちのための施設で働く、というものだった。
 Mさんは、そんなとても人には真似のできないようなことをしようというのに、何か大きな覚悟を持って、などという様子は微塵も見せず、これこそが自分が神から与えられた使命だ、神のため、貧しい人たちのために働くことが心底幸せだ、Mさんがそれをおれたちに話してくれた時の明るい笑顔は忘れられない。

 また、その時より少し前、マザー・テレサの病院、『死を待つ人々の家』で長く働いていたという日本人男性が、おれの通う教会に講演に来たことがあった。

 
『街には行き倒れている人がたくさんいます、定期的にテレサの病院スタッフで巡回し、うつ伏せで寝ているような人の胸の下に手を入れ、起こそうとすると…』

『グシャッ、と胸が崩れるんです、もう腐っているんですね…』

 信じられないような話だ、おれは正直

『気持ちが悪い』

と、クリスチャンとしてはあるまじき思いを抱いた。

『テレサの病院はいつも人手が足りません、もし、皆さんがカルカッタに行くようなことがあれば…』

『一日でもいい、半日でもかまわない、何かしらできることがあります。ぜひ立ち寄って助けてください』

 そう、そしておれは今、その『死を待つ人々の家』のすぐ近くにいる。

『行かなくてはならない』

 半ば強迫観念のようにそれを感じていた。日本でぬくぬくと育ち、東京で3年仕事をしてすっかり俗にまみれた。このカルカッタには馴染んではいる、だが、あの薄汚れた布を纏い、生きていても腐っているかと錯覚するような連中の身体に触れ、手助けをする、そんなことは考えられなかったのだ。無理に決まっている、そう思っていた。
 大体、同じインド人でありながら、金のありそうな奴ほど物乞いや行き倒れの連中を汚らしいものを見るような目で見ているではないか、それを日本人のおれが…

『言い訳をするな、行け、テレサの病院へ行け、死を待つ人々の家へ行け、それが全知全能の神から与えられたお前の使命だ…』

『行かなくてはならない… 行かなくてはならない…』

 おれは遂に、派手なピンクの絵具をパレットに作り、真っ白なキャンパスに叩きつけるようにしてガネーシャの象の頭を描き始めた。



***********************************  つづく

今思うと記事でご紹介したMさん、笑顔で旅立って行きましたが、本当はたくさんの不安を抱えていたのだろうな、とも思います。そして自分、まあ、そうですね、結構病みはじめていたかもしれません。この後、さらに重くなって行きます。長らくお送りしてきた『本能の空腹』、そろそろ終盤にさしかかりました。



コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 祝 コロナ収束? | トップ | スカイツリーの真下でハゼ釣... »

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (カワムラ)
2021-09-18 17:51:00
小平次さん こんにちわ!
気だるい もやもやした カオスの中 
何か こう~なんの救いもないインドの社会と
いう泥の中で Mさんという 蓮の花を見たのですね・・

志の高いMさんのような存在には感動しました。
これぞ 日本の誇り 真の東大生であると・・・
尊い女性ですね。多分 親御さん
立派な方なんでしょうねぇ・・・
人生を銭金で決めてないっちゅうか・・・
返信する
Unknown (小平次)
2021-09-19 08:27:31
カワムラさん、おはようございます❗
そうですね、Mさんはとても素敵な方でした。並の人間にはとても真似できません。
この後、私はキリスト教に疑問を持ち、やがて決別しますが、純粋な信仰心を持つMさんのような方がいらしたのもまた事実です。
いよいよクライマックスが近づきました。
カワムラさんの励ましがあり、ここまで続けて来られました。
ありがとうございました
返信する
こんばんは (猫の誠)
2021-09-19 18:36:46
今回のブログで「本能の空腹」の意味が分かった気がします。
返信する
コメントありがとうございます! (小平次)
2021-09-21 10:08:02
猫の誠さん
コメントありがとうございます!

猫の誠さんのような方から意味がわかったと言って頂きとても嬉しく思います。

最終的にそれを詳しく説明するようなことはしませんが、この日記の中でそう感じて頂けたのなら書いてきた意味が少しはあったのかな、と思います。

ありがとうございました
返信する

コメントを投稿

インド放浪 本能の空腹」カテゴリの最新記事