さむらい小平次のしっくりこない話

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卑弥呼ではない!日御子様です!パート4 小平次の妄想的歴史探訪 再編集

2016-09-26 | 歴史


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こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です


本日は「卑弥呼ではない!日御子さまです!」

パート4をお送りいたします

もっともっと色々と書きたいこともあったり、書いているうちに新たに妄想が浮かんだり

古代史は本当に魅惑的ですが、一応今回を一旦完結編にしたいと思います

では簡単にパート3までのおさらい、といきたいところですが、おさらいだけで長くなってしまいますので、よろしければパート1からお読みいただければ幸いです

パート3のポイントは、神武天皇のご即位が「西暦250年ころ」と推定できるということ

そうなりますと、日御子さまが「皇統」のどなたかでいらしたのであれば、もはや日御子さまは「神代」の時代の方になってしまうということ

でした 

さて、おさらいをかねて、今一度日御子さまの実像について妄想してみたいと思います

日御子さまのご即位直前まで、我が国は大変に乱れていた状態であったようです

内戦状態が長く続いていたとも考えられます

それが、日御子さまのご即位によって治まったという事実から、その争いはおそらくは王位、皇位の継承争いであったのでしょう

また、この弥生時代後期には、以前の記事「渡来人とはナニモノだ?」でも述べましたが、この頃には海を渡り帰化した大陸人もそれなりの世代を経て、政治的にもある程度の勢力になっていたかもしれません

そうなりますと、この内戦はある意味、それまでの平和的価値観を育んできた古来日本人、その後に聖徳太子によって集大成される「和を以て貴しと為す」を国是として歩んでいく日本の礎の時代でもあり、その日本的価値観と、大陸的弱肉強食の価値観との衝突でもあったかもしれません

現代の新自由主義との戦いとよく似ております

そんな時に、古来日本的価値観を重んずる勢力は、今、自分たちが争い合っていては国が滅ぶと、その時に考えうる最も正当な血筋を持つ日御子さまを擁立したのではないでしょうか

そしてそれは、単なる血筋の問題だけではなく、その後の60年という長き治世からも、日御子さまご自身に人を惹きつけるオーラとカリスマ性が十分すぎるほどにあったことが想像できます

ひょっとすれば渡来帰化勢力は、それまで「男王が治めていた」ことなどを理由に日御子さまのご即位に従わない姿勢を見せたかもしれません

しかしながら、そうなればもはや逆賊、朝敵であり、古来からの、その後の、和を以て貴しと為すという価値観のもと、日御子さまを擁立し、争いを止めるために日御子さまをお護りしようと一つにまとまった勢力が、最終的には勝利したのでありましょう

そしてその後我が国は、魏志倭人伝の記述にもある通り、風俗も正しく、犯罪も争い事も少ない平和な時代が日御子さまの治世によって築かれていった、もしくは取り戻されていったわけです

そして圧巻は外交面

この時代、朝鮮半島南部、南端部は「日本」であったと考えられます

「韓(三韓)は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している:魏書東夷伝」

といった記述は、半島中南部に位置していた三韓地域が南は倭と接している、と言っているわけで、素直に読めば半島南部が倭国の一部であったと、大陸では認識していたようにも考えられます(もちろん異説反論多々あり)

この地域は、特にその後長きにわたり宿敵となる高句麗の半島南進に対し、韓地域をはさみ緩衝地帯としながらも、軍事上の重要な防衛拠点であったでしょうし、交易上の要衝でもあったでしょう

また、韓伝などにある、この地域で「倭人が鉄を採取している」というような記述から、資源確保のための重要な地域であったことも伺えます

しかし、遼東地方で強大な勢力を持っていた公孫氏が魏によって滅ぼされたことにより、大和VS高句麗の半島における軍事バランスは非常に不安定なものになったことでしょう

日御子さまはこの機に、実に素早く行動を起こし、魏に使節を送り「親魏倭王」の金印を受け、自らが「倭国王」あることを国際的に認知させました

これは半島南部を含めての「倭国王」ということであり、半島南進をもくろむ高句麗への十分な牽制となったでしょうし、国内においても狗奴国や、他の渡来勢力に対して、安全保障上重要な意味があったでしょう

さらに、ご存知の通り、大陸はこの時代有名な「三国志」の時代です




数は少ないのですが、日御子さまの治世の時代と一致する紀年の入った「魏」の敵である「呉」の銅鏡が日本国内で見つかっております

呉の「孫権」は、魏を牽制するため、再三にわたり公孫氏に使節を送っています

同じように、その人口数などからも決して小国ではなかった、むしろ大国と言って過言でなかった倭国、「大和」に使節を送り、同じように魏への牽制を狙っていたのかも知れません

日御子さまは、支那三国の状況、戦況を把握しつつ、曹操、劉備、孫権と言った三国志の英雄相手に自国防衛のための、一歩間違えれば大変危険とも思われる多面外交を繰り広げていたのです

皇位の継承、弱肉強食の価値観、それらの、内戦とも言える争いを、正当な血筋と輝くようなオーラで治め、全てを融和し、長きにわたる平和な時代と、それまでの、そしてその後の和を以て貴しと為すという我が国の歩むべき道の礎を築き、華麗な外交で国を護った古代女王


まさに超スーパースターです

その卓越した「女性」は、いにしえの人々の記憶に強く強く刻まれたことでしょう

そしてその「女性」にまつわる様々な事跡は、長き年月とともに人々に語り継がれ、やがて神話となり日本中の人々から敬い崇められるようになります



皇祖神

「天照大神様」

として



おおお、日御子さまは天照大神様であらせられたのか!

と、驚いて見せましたが、実はこのような説は結構昔から論じている方々もいらっしゃいまして、決して目新しい説というわけでもありません

小平次自身、過去に日本史を自分なりにひも解き直し始めたころ、最初に思った妄想なのです

しかしながら、その妄想をしっくりとこさせてくれるような論にはなかなか出会えなかったのですが、近年になって、この古代史の世界にご登場なされた「大平裕」さん

その著書「日本古代史正解」シリーズ他、との出会いによって、その妄想に確信を持つに至っている次第なのであります

前回ご紹介した安本美典さんの「古代天皇一代平均在位年数約十年説」ですが、もちろんこれはあくまで平均ですので、在位期間の短かった天皇も長かった天皇もいらしたでしょうし、完全に一致するわけではないでしょう

それを承知の上で大変おおざっぱではありますが、「日御子さま」=「天照大神様」を確認してみたいと思うのです

パート3で申しあげたように、神武天皇のご即位は西暦「250年頃」と推定できます

つまり日御子さまの治世は神武天皇のご即位より「前」となり、日御子さまが「皇統」のどなたがでいらしたのであれば、もはや日御子さまは「神代」の時代の方になってしまうということは前回述べました。

日御子様は当時としてはかなり例外的にその在位期間が長く、ご即位が180年から185年くらいの間で、崩年が248年、60年以上に渡っております

「日御子さま」=「天照大神様」

として、神武天皇にその「血筋」が継承されたとすれば、「古代天皇一代平均在位年数約十年説」から本来の平均的在位期間から考えれば、最低でも5代から6代くらいの皇位継承があっても良かった年数になります

つまり、神武天皇の「5代前」に天照大神様がいらっしゃるということもまた、日御子さまの治世期間と一致するわけです

大平さんはこのあたりの事も多角的に論証なさっていますので、興味のある方は是非お読みになってはいかがでしょう

さて

「日御子さま」=「天照大神様」

そうなりますと、例えば「出雲の国譲り」も「天孫降臨」も、日御子さまの事績ということになります

奈良、纏向の地にいらした日御子様が、「出雲の国譲り」神話などからもわかるように、支那や西洋的な「隷属させ支配する国」ではなく、君御自ら無私となり民の心を知り「君民共に治める国」「君民一体の国」として日本の統一を目指していたという事になります



細かく言えば、魏志倭人伝の記述などからすれば、日御子さまは大祭司、最高位の神官であらせられ、政(まつりごと)には直接関与されていなかったようにも想像できますが、それはそれでまた、我が国の「天皇」「為政者」「民」という国の形がすでにできていたとも思えるわけで、なおさら

「日御子さま」=「天照大神様」

であったようにも感じます


さて、最後になりますが

「日御子さま」=「天照大神様」説にもいくつか問題はあります

魏志倭人伝には、日御子様の崩御後「男王」が立ち再び国が乱れ、その後また女性の「台与(?)」が立ち国が治まった、とあります

その「男王」とはだれか

「台与(?)」とはだれか(これが「日御子さま」=「天照大神様」説最大の難所?)

また、日御子さまが纏向の地にいらしたのであれば神武天皇の「東征」とはいかなる経緯であったのか等々

そういったことを妄想していくのもまた楽しいものです

また、神武天皇のご即位を西暦250年ころとするならば

「皇紀」

はどうなるのだ!今年は皇紀2676年ではないのか!

さて、小平次は神武天皇のご即位を西暦250年ころと確信しながらも、今年は皇紀2676年であると受け止めております

さらに、小平次は微力ながら地元神社の役員をさせて頂きつつ、週に1度は参拝をさせて頂いております

その神社の祭神は「天照大神様」です

「日御子さま」=「天照大神様」

であった、と妄想しつつも、小平次が参拝させて頂くのは間違いなく「天照大神様」であります

つまり、信仰や信心、と科学は別物でよかろうということです

「高名な宇宙物理学者」で「敬虔なクリスチャン」

なんて人も欧米にはいらっしゃるでしょう

その方がビッグバンからの宇宙の歴史と、46億年前の地球誕生について科学的に研究しながら、かつ、聖書の天地創造と人類創生は信仰の対象として受け止めていることでしょう


さて、今回書ききれなかったことや、あらたな妄想についてはまた別の機会で…


最後までお読みいただきありがとうございました



御免!


※当記事は、主に大平裕さんの「日本古代史正解」他著作を参照にしながらあくまでも私的な妄想で述べさせて頂いていることをご承知おきください

コメント (4)
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