29日宜野湾海浜公園で、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれた。
高校歴史教科書の検定で、文部科学省が沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」から日本軍の強制を示す記述を削除させたことに抗議する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」は戦争を体験した高齢者から子どもまで幅広い年代が参加、会場は静かな怒りに包まれた。
会場は時間前から多くの参加者で埋め尽くされて足の踏み場のないすしずめ状態であるにもかかわらず次ぎから次へと参加者が詰めかけている。
宜野湾海浜公園の多目的広場に入りきれず、場外にも多くの方が炎天下にも拘らず体験者の声に耳を傾けている。
私たちは真実を学びたい。次世代の子どもたちに真実を伝えたい、高校歴史教科書の検定で、文部科学省が沖縄戦「集団自決(強制集団死)」から日本軍強制の記述を削除したことに抗議する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」大会参加者は当初予想を上回る11~3万人、宮古、八重山を含めると15万人に達し、復帰後最大の“島ぐるみ”大会になった。
大会では日本軍の命令、強制、誘導などの記述を削除した文科省に対し、検定意見撤回と記述回復を求める決議を採択した。
戦争を体験した高齢者から子どもまで幅広い年代が参加、会場は静かな怒りに包まれた。県外でも東京、神奈川、愛媛などで集会が開かれたようです、検定意見撤回と記述回復を求める県民の切実な願いは全国に広がった。
大会実行委員長の仲里利信県議会議長は「軍命による『集団自決』だったのか、あるいは文科省が言う『自ら進んで死を選択した』とする殉国美談を認めるかが問われている。
全県民が立ち上がり、教科書から軍隊による強制集団死の削除に断固として『ノー』と叫ぼう」と訴えた。
仲井真弘多県知事は「日本軍の関与は、当時の教育を含む時代状況の総合的な背景。手榴弾が配られるなどの証言から覆い隠すことのできない事実」とし、検定意見撤回と記述復活を強く求めた。
「集団自決」体験者、高校生、女性、子ども会、青年代表なども登壇。検定撤回に応じず、戦争体験を否定する文科省への怒りや平和への思いを訴えた。
渡嘉敷村の体験者、吉川嘉勝さん(68)は「沖縄はまたも国の踏み台、捨て石になっている。県民をはじめ多くの国民が国の将来に危機を感じたからこそ、ここに集まった。為政者はこの思いをきちっと受け止めるべきだ」とぶつけた。
体験文を寄せた座間味村の宮平春子さん(82)=宮里芳和さん代読=は、助役兼兵事主任をしていた兄が「玉砕する。軍から命令があった」と話していたことを証言した。
読谷高校三年の津嘉山拡大君は「うそを真実と言わないで」、照屋奈津実さんは「あの醜い戦争を美化しないで」とそれぞれ訴えた。
会場の11万余人は体験者の思いを共有し、沖縄戦の史実が改ざんされようとする現状に危機感を募らせた。
宮古、八重山の郡民大会に参加した五市町村長を含み、大会には全41市町村長が参加した。
実行委は十月十五、十六日に二百人規模の代表団で上京し、首相官邸や文科省、国会などに検定意見の撤回と記述回復を要請する。
会場には家族連れや戦争体験者、学生などが詰め掛けた。那覇市の花城隆さん(74)、トヨさん(76)夫妻。
共に沖縄戦の体験者として「政府は、なぜ『集団自決』の生き残りの証言を信じてくれないのか。『集団自決』の現場は見ていないが、同じ体験者として絶対許せない」と憤った。
1945年3月26日に「集団自決(強制集団死)」が起きた座間味村の住民約50人は29日午後一時すぎ、船とバスを乗り継ぎ「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれる宜野湾海浜公園に到着した。愛する家族や親せきを失ったお年寄りらは「歴史を歪めさせない」「子どもたちに真実を伝える」と誓い合った。「集団自決」の体験者らは「多くの人が参加し、県民の声が全国に届く大会にしたい」と気持ちを新たにした。
元村議の中村武次郎さん(77)は慶留間島で、家族三人のうち姉が「集団自決」で亡くなった。「記述が削除されては、島で何が起きたのか教えられなくなる。大会を成功させようと思い、参加を決めた」と力を込めた。
沖縄戦当時の村助役兼兵事主任の兄、宮里盛秀さんと家族を亡くした宮平春子さん(81)の「集団自決」体験を県民大会で代読する元役場職員、宮里芳和さん(59)は「兄家族を失った宮平さんには熱い思いがある。宮平さんの万感胸に迫る思いを訴えようと、燃える気持ちだ」と少し緊張した面持ちだった。
村実行委員会副委員長の仲村三雄村長(64)は「大戦中の尊い命を犠牲に、戦後は平和な座間味島を築いてきた。全国に県民の声が届く大会にしたい」と話した。
宮里順之村議(72)は1945年3月、「集団自決」が起きた産業組合壕で、死ぬために「中に入れてほしい」と大人たちが押し問答したことを子ども心に覚えている。「『集団自決』があった座間味村から、多くの人が参加して大会を成功させたい」と力を込めた。
1942年に徴兵され、「死んで座間味に帰ってくるはずだった」という宮里正太郎さん(87)。「会場に多くの人が集まっているが、これは問題の大きさを表している。今後の平和のためにも、真実を曲げてはいけない」と言い切った。
1945年3月25日、座間味村の忠魂碑前に軍命で集まった住民に対し、日本兵が「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と手榴弾を渡していたことが28日、同村在住の宮川スミ子さん(74)の証言で分かった。
長年、座間味村の「集団自決(強制集団死)」について聞き取りをしてきた宮城晴美さん(沖縄女性史家)は「単純に忠魂碑前へ集まれでなく、そこに日本軍の存在があったことが初めて分かった」と指摘している。忠魂碑前で日本兵が手榴弾を配ったとする証言は初めて。
宮川さんは当時、座間味国民学校五年生。米軍が座間味島を空襲した1945年3月23日に、母のマカさんとともに家族で造った内川山の壕に避難していた。25日夜、マカさんが「忠魂碑の前に集まりなさいと言われた」とスミ子さんの手を引き壕を出た。
二人は、米軍の砲弾を避けながら20~30分かけ、忠魂碑前に着いた。その際、住民に囲まれていた日本兵一人がマカさんに「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と言い、手榴弾を差し出したという。スミ子さんは「手榴弾を左手で抱え、右手で住民に差し出していた」と話す。
マカさんは「家族がみんな一緒でないと死ねない」と受け取りを拒んだ。スミ子さんはすぐそばで日本兵とマカさんのやりとりを聞いた。二人はその後、米軍の猛攻撃から逃れるため、あてもなく山中へと逃げた。
聞き取りが当時の大人中心だったため、これまで証言する機会がなかった。スミ子さんは「戦前の誤った教育が『集団自決』を生んだ。戦争をなくすため、教科書には真実を記してほしい」と力を込めた。
宮城さんは「日本軍が手榴弾を配ったことが、さらに住民に絶望感を与え、『集団自決』に住民を追い込んでいった」と話している。
書かれるのはつらい それでも教科書に事実を 戦争を起こさぬためと山城美枝子さん
「書かれるのは本当はつらい。でも事実を教科書にはっきりと書いてほしい」。座間味村の「集団自決(強制集団死)」で助役兼兵事主任だった父親・宮里盛秀さん=当時(33)=ら家族五人を亡くした山城美枝子さん(66)が、宜野湾海浜公園で行われる「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に参加、教科書記述から軍強制が消された現状と、軍に抗えなかった沖縄戦時下とを重ね、「時代が逆戻りしている」と危機感を抱く。記述が復活し「集団自決」の事実が全国で知られることを願うと語った。
1945年3月26日座間味村・産業組合の壕で、役場職員とその家族ら67人が「集団自決」に追い込まれた。
美枝子さんは、父母、7歳、6歳、11カ月のきょうだい三人を失った。一人残され、常に家族のことを思いながら生きてきたが、公の場で語ることはこれまでなかった。
平和への願いは強く、これまでも普天間包囲行動や米軍ヘリ墜落の抗議集会には孫の手を引いて参加した。
今年3月、日本軍の強制が削除された検定結果が明らかになった後も、父・盛秀さんが、兵事主任として軍からの命令を住民に伝える立場だったため、「集団自決」問題について話すことには迷いがあった。
しかし、沖縄戦の歴史を歪曲させないという怒りが県民の間にわき起こったことに「後押しされているように」思えた。
住民に「集団自決」の軍命を伝え、自らも子どもたちを手にかけなければならなかった父親の苦悩への思いを語った。「家族から一人残されたことは、父が思いを託すため」とも考えるようになった。
美枝子さん自身、「集団自決」の記述に触れることで、心をかきむしられ、涙が止まらなくなる。
子どもを抱き締め号泣した父親の心痛がありありと感じられるからだ。「書かれることも本当はつらい」。それでも、教科書には軍強制の記述をしっかり書くべきだと主張する。「事実は事実として受け止めなければならない。そうでなければ、時代があの時と同じに戻るのではないか」と懸念する。
「集団自決」検定問題が起きた後、市民らから県民大会開催の動きが起こり、県議会が検定意見撤回を求め意見書案を2度可決、全市町村議会でも意見書案を可決するなど全県的なうねりとなった。県外の地方議会でも検定意見撤回を求める意見書案が可決され、全国的な関心を呼んでいる。大会とは別に、市民団体などが4月ごろから始めた検定意見撤回を求める署名は9月までに県内外から約52万人分が集まった。
2007年3月30日、文部科学省が高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」から日本軍の強制の削除・修正を発表。県民から強い反発が起こり、県内全41市町村議会と、県議会が検定意見撤回の意見書案を可決した。教科用図書検定調査審議会の日本史小委員会では、沖縄戦を研究していない委員らによって、実質的な議論がないままに記述修正が承認されたことが明らかになっている
高校歴史教科書の検定で、文部科学省が沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」から日本軍の強制を示す記述を削除させたことに抗議する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」は戦争を体験した高齢者から子どもまで幅広い年代が参加、会場は静かな怒りに包まれた。
会場は時間前から多くの参加者で埋め尽くされて足の踏み場のないすしずめ状態であるにもかかわらず次ぎから次へと参加者が詰めかけている。
宜野湾海浜公園の多目的広場に入りきれず、場外にも多くの方が炎天下にも拘らず体験者の声に耳を傾けている。
私たちは真実を学びたい。次世代の子どもたちに真実を伝えたい、高校歴史教科書の検定で、文部科学省が沖縄戦「集団自決(強制集団死)」から日本軍強制の記述を削除したことに抗議する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」大会参加者は当初予想を上回る11~3万人、宮古、八重山を含めると15万人に達し、復帰後最大の“島ぐるみ”大会になった。
大会では日本軍の命令、強制、誘導などの記述を削除した文科省に対し、検定意見撤回と記述回復を求める決議を採択した。
戦争を体験した高齢者から子どもまで幅広い年代が参加、会場は静かな怒りに包まれた。県外でも東京、神奈川、愛媛などで集会が開かれたようです、検定意見撤回と記述回復を求める県民の切実な願いは全国に広がった。
大会実行委員長の仲里利信県議会議長は「軍命による『集団自決』だったのか、あるいは文科省が言う『自ら進んで死を選択した』とする殉国美談を認めるかが問われている。
全県民が立ち上がり、教科書から軍隊による強制集団死の削除に断固として『ノー』と叫ぼう」と訴えた。
仲井真弘多県知事は「日本軍の関与は、当時の教育を含む時代状況の総合的な背景。手榴弾が配られるなどの証言から覆い隠すことのできない事実」とし、検定意見撤回と記述復活を強く求めた。
「集団自決」体験者、高校生、女性、子ども会、青年代表なども登壇。検定撤回に応じず、戦争体験を否定する文科省への怒りや平和への思いを訴えた。
渡嘉敷村の体験者、吉川嘉勝さん(68)は「沖縄はまたも国の踏み台、捨て石になっている。県民をはじめ多くの国民が国の将来に危機を感じたからこそ、ここに集まった。為政者はこの思いをきちっと受け止めるべきだ」とぶつけた。
体験文を寄せた座間味村の宮平春子さん(82)=宮里芳和さん代読=は、助役兼兵事主任をしていた兄が「玉砕する。軍から命令があった」と話していたことを証言した。
読谷高校三年の津嘉山拡大君は「うそを真実と言わないで」、照屋奈津実さんは「あの醜い戦争を美化しないで」とそれぞれ訴えた。
会場の11万余人は体験者の思いを共有し、沖縄戦の史実が改ざんされようとする現状に危機感を募らせた。
宮古、八重山の郡民大会に参加した五市町村長を含み、大会には全41市町村長が参加した。
実行委は十月十五、十六日に二百人規模の代表団で上京し、首相官邸や文科省、国会などに検定意見の撤回と記述回復を要請する。
会場には家族連れや戦争体験者、学生などが詰め掛けた。那覇市の花城隆さん(74)、トヨさん(76)夫妻。
共に沖縄戦の体験者として「政府は、なぜ『集団自決』の生き残りの証言を信じてくれないのか。『集団自決』の現場は見ていないが、同じ体験者として絶対許せない」と憤った。
1945年3月26日に「集団自決(強制集団死)」が起きた座間味村の住民約50人は29日午後一時すぎ、船とバスを乗り継ぎ「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれる宜野湾海浜公園に到着した。愛する家族や親せきを失ったお年寄りらは「歴史を歪めさせない」「子どもたちに真実を伝える」と誓い合った。「集団自決」の体験者らは「多くの人が参加し、県民の声が全国に届く大会にしたい」と気持ちを新たにした。
元村議の中村武次郎さん(77)は慶留間島で、家族三人のうち姉が「集団自決」で亡くなった。「記述が削除されては、島で何が起きたのか教えられなくなる。大会を成功させようと思い、参加を決めた」と力を込めた。
沖縄戦当時の村助役兼兵事主任の兄、宮里盛秀さんと家族を亡くした宮平春子さん(81)の「集団自決」体験を県民大会で代読する元役場職員、宮里芳和さん(59)は「兄家族を失った宮平さんには熱い思いがある。宮平さんの万感胸に迫る思いを訴えようと、燃える気持ちだ」と少し緊張した面持ちだった。
村実行委員会副委員長の仲村三雄村長(64)は「大戦中の尊い命を犠牲に、戦後は平和な座間味島を築いてきた。全国に県民の声が届く大会にしたい」と話した。
宮里順之村議(72)は1945年3月、「集団自決」が起きた産業組合壕で、死ぬために「中に入れてほしい」と大人たちが押し問答したことを子ども心に覚えている。「『集団自決』があった座間味村から、多くの人が参加して大会を成功させたい」と力を込めた。
1942年に徴兵され、「死んで座間味に帰ってくるはずだった」という宮里正太郎さん(87)。「会場に多くの人が集まっているが、これは問題の大きさを表している。今後の平和のためにも、真実を曲げてはいけない」と言い切った。
1945年3月25日、座間味村の忠魂碑前に軍命で集まった住民に対し、日本兵が「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と手榴弾を渡していたことが28日、同村在住の宮川スミ子さん(74)の証言で分かった。
長年、座間味村の「集団自決(強制集団死)」について聞き取りをしてきた宮城晴美さん(沖縄女性史家)は「単純に忠魂碑前へ集まれでなく、そこに日本軍の存在があったことが初めて分かった」と指摘している。忠魂碑前で日本兵が手榴弾を配ったとする証言は初めて。
宮川さんは当時、座間味国民学校五年生。米軍が座間味島を空襲した1945年3月23日に、母のマカさんとともに家族で造った内川山の壕に避難していた。25日夜、マカさんが「忠魂碑の前に集まりなさいと言われた」とスミ子さんの手を引き壕を出た。
二人は、米軍の砲弾を避けながら20~30分かけ、忠魂碑前に着いた。その際、住民に囲まれていた日本兵一人がマカさんに「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と言い、手榴弾を差し出したという。スミ子さんは「手榴弾を左手で抱え、右手で住民に差し出していた」と話す。
マカさんは「家族がみんな一緒でないと死ねない」と受け取りを拒んだ。スミ子さんはすぐそばで日本兵とマカさんのやりとりを聞いた。二人はその後、米軍の猛攻撃から逃れるため、あてもなく山中へと逃げた。
聞き取りが当時の大人中心だったため、これまで証言する機会がなかった。スミ子さんは「戦前の誤った教育が『集団自決』を生んだ。戦争をなくすため、教科書には真実を記してほしい」と力を込めた。
宮城さんは「日本軍が手榴弾を配ったことが、さらに住民に絶望感を与え、『集団自決』に住民を追い込んでいった」と話している。
書かれるのはつらい それでも教科書に事実を 戦争を起こさぬためと山城美枝子さん
「書かれるのは本当はつらい。でも事実を教科書にはっきりと書いてほしい」。座間味村の「集団自決(強制集団死)」で助役兼兵事主任だった父親・宮里盛秀さん=当時(33)=ら家族五人を亡くした山城美枝子さん(66)が、宜野湾海浜公園で行われる「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に参加、教科書記述から軍強制が消された現状と、軍に抗えなかった沖縄戦時下とを重ね、「時代が逆戻りしている」と危機感を抱く。記述が復活し「集団自決」の事実が全国で知られることを願うと語った。
1945年3月26日座間味村・産業組合の壕で、役場職員とその家族ら67人が「集団自決」に追い込まれた。
美枝子さんは、父母、7歳、6歳、11カ月のきょうだい三人を失った。一人残され、常に家族のことを思いながら生きてきたが、公の場で語ることはこれまでなかった。
平和への願いは強く、これまでも普天間包囲行動や米軍ヘリ墜落の抗議集会には孫の手を引いて参加した。
今年3月、日本軍の強制が削除された検定結果が明らかになった後も、父・盛秀さんが、兵事主任として軍からの命令を住民に伝える立場だったため、「集団自決」問題について話すことには迷いがあった。
しかし、沖縄戦の歴史を歪曲させないという怒りが県民の間にわき起こったことに「後押しされているように」思えた。
住民に「集団自決」の軍命を伝え、自らも子どもたちを手にかけなければならなかった父親の苦悩への思いを語った。「家族から一人残されたことは、父が思いを託すため」とも考えるようになった。
美枝子さん自身、「集団自決」の記述に触れることで、心をかきむしられ、涙が止まらなくなる。
子どもを抱き締め号泣した父親の心痛がありありと感じられるからだ。「書かれることも本当はつらい」。それでも、教科書には軍強制の記述をしっかり書くべきだと主張する。「事実は事実として受け止めなければならない。そうでなければ、時代があの時と同じに戻るのではないか」と懸念する。
「集団自決」検定問題が起きた後、市民らから県民大会開催の動きが起こり、県議会が検定意見撤回を求め意見書案を2度可決、全市町村議会でも意見書案を可決するなど全県的なうねりとなった。県外の地方議会でも検定意見撤回を求める意見書案が可決され、全国的な関心を呼んでいる。大会とは別に、市民団体などが4月ごろから始めた検定意見撤回を求める署名は9月までに県内外から約52万人分が集まった。
2007年3月30日、文部科学省が高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」から日本軍の強制の削除・修正を発表。県民から強い反発が起こり、県内全41市町村議会と、県議会が検定意見撤回の意見書案を可決した。教科用図書検定調査審議会の日本史小委員会では、沖縄戦を研究していない委員らによって、実質的な議論がないままに記述修正が承認されたことが明らかになっている