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住まいは人権! 一般社団法人協働舎
暮らしを高めるのは福祉制度の充実。
福祉制度の充実には私たち一人ひとりの声

共謀罪アカン 歩いてきました。

2017-06-04 | 暮らし・社会

暑い一日でした。

朝のうちにちょっと、妻の歩行に付きおうてお昼ご飯を食べた後、原爆ドーム前で開かれた 広島弁護士会主催の共謀罪に反対する市民集会に参加して来ました。

今はスマホが使えないんで、写真はネットからお借りしたんやけど、参加者は500人やったと。

もっともっと多くの人が関心を持たんとアカンで!

その後、八丁堀から本通りをまた平和公園まで帰るデモに。

若いお巡りさんから「前に続いて」「詰めてください」と言われながら・・・

年取るとそんなに早う歩かれへんねんやんか。

 そういえば、福岡の金塊強盗事件で捕まった容疑者達の電話を傍聴しとったらお巡りさんと連絡を取り合う突端ががわかった・・・ と、ニュースがあったけど、あれはもう警察は電話をずっと傍受しとるいうことやし、釜山の総領事がクビになったんは、友達との食事の時に安倍やり方を批判したということやし、この国もう監視されとるいうこととちゃうか?

 スノーデンさんの話やと、米国は日本政府にメールから「問題なやつ」を探り出すシステムを提供しとるそうやないか。

 僕は自由に物事を考えたいし、友達とも自由に意見を交わしたいと思うとるさかい、共謀罪は絶対反対や。監視がゆきわたる国にしたらアカン。

 そのあとは、バスに乗って知人の散髪屋さんへ。

 

 

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バウムクーヘンと似島

2017-06-04 | まいにち
今朝、新聞を見ていたら「バウムクーヘン」というコラムがあってこんなことが書いてあった。
「・・・実のところ、ドイツでバウムクーヘンはそれほどメジャーなお菓子ではなく、若者の中にはバウムクーヘン自体を知らない人もいるらしい。
  ベルリンにも、バウムクーヘンを売るお店は何軒かあるものの、正直言って、味は日本のバウムクーヘンの方が格段に美味しいのである。・・・」
僕はバウムクーヘンいうたら日本の大福餅のようなもの、誰でも知っとるんやと思うとったけど、そうでもないらしい。
でもまあ、最近日本でも大福を知らない若い人もいるかもしれないが。
 
下は広島市のホームページ。
多くの若者が中国などへ送られ、たくさんの負傷兵が帰って来た似島・・・
 
日本で初めてバウムクーヘンが作られたのは似島やと書いてある。
このブログにも何度か書いたけど、古い広島の手話では似島を「ドイツ」と表す。
初めて手話を教えてもらった時、「安芸の小富士から来た富士山の形や」と教えてもろうたんやけど、その後年配の人の話の中からドイツやとわかった次第。
ドイツ兵の収容所があったからなあ。
 
 

日本でバウムクーヘンを普及させたカール・ユーハイムは、今から90年以上前、ドイツの租借地であった中国のチンタオ(青島)で、ドイツ人相手にケーキを焼いていました。第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本が、チンタオを陥落させたのが大正3年(1914年)11月でした。彼は結婚したばかりでしたが、多くの捕虜と一緒に日本へ連行され、大正6年2月には大阪の収容所から似島に移されたのです。

 開設当時の似島の捕虜収容所の収容人数は、540名あまり、場所は、現在の似島臨海少年自然の家あたりで、建物・畑・テニスコート・サッカー場を含めた1万6000平方メートルほどでした。捕虜となった人々は色々な作業についており、印刷所では新聞も発行されていました。

 

  似島臨海少年自然の家で行われた「キッズ平和スクール」で子ども達が焼いたバウムクーヘン(写真)

大正7年11月ドイツの降伏により、捕虜達にはより一層の自由が与えられることになりました。翌年には、捕虜チームと広島高等師範の学生とのサッカーの試合が行われています。

そんな中、ユーハイムは捕虜収容所でバウムクーヘンを焼いていましたが、彼が最も活躍したのが大正8年3月4日から始まった広島県物産陳列館(その後、広島県産業奨励館に改称。現在の原爆ドーム)での捕虜製作品展覧会でした。初日の入場者は7,400人を数え、その後も押すな押すなの大盛況が続いたといいます。当時の書物によると、工芸品、絵画、サンドウィッチやコーヒーなどという、当時としては、まだまだ珍しいものが並び、多くの市民をヨーロッパに行った気分にさせたとあります。

中でも菓子は、教師の初任給が20円だった当時、初日だけで150円を売り上げ、一番の人気商品でした。当日の様子を中国新聞が紹介しており、これが日本人とバウムクーヘンが最初に出会った出来事とされています。

大正9年に捕虜生活から開放されたユーハイムですが、そのまま日本に残り、横浜に自分の菓子店を開店しました。ドイツ、中国、日本と波乱万丈の人生を過ごしたユーハイムが、似島の地に残したバウムクーヘンは今や全国に広がっています。

 暮らしの中から作られて来た手話表現を大事にしたいなあ、とは思うが 言葉やから当然時代とともに変わっていくんやろう。

(もう随分前に出した本でアマゾンで検索したら新本は4844円もの値段がつけられとるんですけど、広通研か河合へ直接お申し込みいただいたらぐっと安いです。コマーシャルでした。)

 

 

 

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