峠を越えて - Get over the Pass -

自然を愛する気持ちを忘れずに

地震後2日目

2011-03-12 | 雑感
<2日目(土曜日)>
朝からテレビをつけっぱなしにして,朝飯をとった.水も電気もガスも通っているので,我が家は至って平穏だ.PCメールで職場の情報を確認し,上司・部下との連絡を取り合った.地方に出張に出ていた者も無事で,予定を切り上げてそれぞれ戻って来る予定とのこと.職場の再開は2日後(月曜日)の予定.
家族で一日中テレビを見た.被災地や福島原発の状況が刻々と変化している.とんでもない被害が出ている.出張で数年前に訪れた釜石・大槌,去年行った八戸.見覚えのある街並もあった.全く違う情景になっていた.大槌の街は無くなっている.この春にも八戸・二戸辺りに出張を予定しているが,無理かもしれない.新幹線・高速がダメだ.

災害時でも通常の番組を放送するテレビ東京も,今回だけは流石に違っていた.地震関連ニュースを流しっぱなしだ.まだ10~20分間隔で余震が来る.かなり揺れる.震度3~4くらいか.時折震度5くらいのも来る.いつまで続くのだろうか?

夕方,近くのスーパーに買い出しに出かけた.最寄りの店は幾つも閉まってたので,隣駅近くまで車で向かった.駐車場は一杯だったが,いつもの日曜くらいの混雑.周りの地区では断水が続いているらしいので,とりあえず水を確保しようと思ったが売り切れだった.お茶のペットボトル2本,スパゲティ300g,レトルト食品などを購入.

和歌山に住んでいる大学後輩Hよりメールがあった.茨城・東海村に住むMと連絡が取れてないので,こちらからも連絡を試みて欲しいとのこと.東海村より南の大洗でも4mの津波が襲ったと報道されている.それに,Mは核燃サイクルで働いているので,福島原発みたいな事態になってないか,心配になった.すぐにメールした.

まだ片付けが終わってない書斎等を整理した.随分と要らない物がでてきたのでまとめて捨てることにした.大掃除をあまりやらないので,ちょうど良かった.

夜8時過ぎに,Mと連絡が付いたとHからメールが入った.なによりだ.

東北沖太平洋地震 - 発生の時

2011-03-12 | 雑感
とにかく大きな地震だった.ここでは大した物的被害は無かったが,記録と記憶のために綴っていきたいと思う.

<地震発生>
デスクに向かって仕事をしていたら,カタカタと弱い揺れが始まった.初期微動から少し強い本震に変わったが,いつもこの程度の地震があるので特に気に留めなかった.ただ,今後30年間の地震発生率が90%を越えている海域で2~3日前に地震があったばかりなので,「もしかしたら?」という不安が脳裏を過った.
と,考える間もなく,部屋全体が急激に激しく揺れ出した.大きな横揺れだ.立ち上がり,目の前のパソコンを押さえ,窓越しに外を見た.樹木や街灯,建物全体が揺れているのが判る.こんな大きな地震は初めてだ.1~2分経っただろうか,若干揺れが弱くなりかけて,「これで収まるかな」と思った矢先,さらに大きな揺れが1回,2回と襲った.「いつまで続くのか!」と不安になるが,とにかく耐えるしかない.モニタ画面がバッチと真っ黒になった.電源が切れた.

やっと地震は収まった.5分くらいは揺れただろうか.部屋の中は棚から本や書類が落ち,床を埋めた.小机に置いてあった書類とノートPCも転落.デスク・キャビネットなどが数10cm移動している.物的被害はこんな程度だったので,身は守れた.
館内放送からは「火災の発生はありません」のアナウンス.そして避難誘導係が「ガス栓,水道を確認してヘルメッット着用ですぐに避難せよ!」と,各部屋を廻って来た.正面玄関前に全員集合し安否確認.人的被害も無いようだ.私のグループ員たちも無事だ.

はたして自宅はどうなのか? 家族は? 避難担当者に「自宅に戻りたいが」と問うと「しばらくここで待機してくれ」と.「エッ!」こんな所で無駄に時間を過ごすのか? 「そんな呑気なことしてられるか! 家族の安否はどうするのか?」.ちょっと怒鳴ってしまったが,マニュアル通りの対応に腹が立ってしまった.交渉して,「各グループで誰か連絡待機できる者を指定すれば帰宅OK」を取り付けた.

<帰宅>
道が渋滞すると思い自転車を借り出し,街へ出た.思ったほどの渋滞はまだ発生していなかった.道すがらの小学校では,グランドに生徒が避難している.中学生の娘も多分大丈夫だろう.家内の携帯にはまだ繋がらない.駅前のバスターミナルやデパート前広場には,買い物客や会社員や学生などが避難している.普段はそんなに人出が多くない街だが,それでも沢山の人たちだ.自転車が通れない.

30分ほどで自宅に到着.奥さん連中が子供連れで外に出て来ている.当然エレベーターは停止しているので11階まで階段を昇る.年末にもエレベーター交換工事で10日ほど階段を昇り降りしたので,その苦労に比べればどうってこと無い.途中,降りて来たお隣の旦那さんが「やあ~,家ん中は見たくない光景ですよ」って笑ってた.我が家の玄関先は,自転車2台と一輪車が倒れてドアを塞いでいた.積み上げてた夏用タイヤは崩れてなかった.テニスボールも散乱していた.これらを片付け家に入る.

お隣さんの言う通り,床は落ちて来たもので埋め尽くされている.家に居たら怪我してただろう.電気とガスは通じている.それに水道も出る.食器棚・冷蔵庫・タンス・ピアノなど,重い家具類が1~2m移動していた.台所では割れた食器が散乱していたが,油や酒などのビンは割れていない.特に泡盛の3升甕が無事で安心した.書斎の本棚は倒れ大小2つの三線を直撃していたが,こちらも折れてなかった.携帯・固定電話とも,まだ通じない.

とにかく後始末をしよう.家具類を動かし,割れ物を袋に積め,掃除機をかける.1時間ほどで台所と居間は片付いた.そのとき家内が帰って来た.美容院で地震にあったそうだ.シャンプーが終わった時に揺れ始め,そのまま外に避難した.余震と断水・停電の中,カットを済まし,帰宅したとのこと.帰ってくるなり家内は「学校まで迎えに行かないと!」と言ってすぐに出て行った.(家内は,外にいた奥さん連中から聞いたそうだが)中学校から「親が迎えに行かなければ,生徒は勝手に帰宅できない」と連絡があったが,こういう非常事態に各家庭に電話が通じるはずが無い.親に連絡が付かない生徒はずっと学校に残ってたそうだし,もしかしたら親の方も子供達の帰宅をずーっと待ってたかもしれない.

やっと家族全員が揃った.誰も怪我してない.良かった.家ん中も粗方片付けた.家内と娘は地震直後の状態を見てなかったので何の驚きもなかった.地震の怖さを思い知らさせるために,片付けなかった方が良かったかもしれない.今晩は家の中で過ごせることが確認できたので,再び職場に戻った.夕方6時前になっていた.

<職場に戻る>
職場の事業所は,殆ど人が居なくなってた.帰宅指示があったようだ.建物内は非常灯が点いているが,停電のままだ.部屋に散乱した書類や本を片付け,最低限の転倒防止を施した.「安全の確保ができないので,残ってる全ての職員は7時に退去すること」と館内放送が入り,その通りに7時に非常灯が消えた.退室し残した車で自宅に戻った.道すがら気がついたのだが,事業所周辺は完全に停電しており,信号も消え,店舗の灯も無い.ところが自宅付近では煌々と明るい.こんなにも違うものなのか?

<初日の終わり>
家ではテレビがついていた.どのチャンネルも地震報道一色だ.画面からは津波の映像が繰り返し流れてくる.これは大変だ.被害の様子を初めて知った.PCを開きメールをチェックする.地震後のメールは無かった.多分それどころではないのか,それともサーバーのダウンなのか? ただ夜中近くに,仙台の知人Sのメールが転送されて来た.「生きています」と.
兎に角,もう寝よう.だが余震は続く.