車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

讃岐宮:香川県護国神社・乃木神社 in 香川県善通寺市

2021年03月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・香川県

善通寺市文京町に鎮座される「讃岐宮香川県護国神社」。明治維新以来、国の為に尊い命を捧げた香川県出身の御英霊が奉られます。

護国の英霊35700余柱が鎮まっておられる神域を守護されるのは、招魂社型と分類される狛犬さん一対。どうぞ、この宮が静かで安らげる地であるように、しっかりと守護をお願い致します。

「鎮魂予科練之碑」・・1930年、霞ヶ浦飛行場 (茨城県) に開設された「海軍飛行学校」。「海軍飛行予科練習生」・・純粋に国を守ろうと決意し、志願兵として戦に参加された、平均年齢15~17歳・・若き命の鎮魂碑です。

「工兵隊碑」・・・ 部隊の作戦行動(野戦)を容易にしたり、攻撃や防御、移動を支援したりする任務を専属とする兵科を工兵と言います。

戦場で戦うのは父や夫・息子。彼らを見送る母も妻も子も、やはり共に戦っていたのだと「母子像」は語りかけてきます。「傷痍の碑」の台座に刻まれた「祈祖国平和」。好き勝手なことを言って笑って暮らせる今が、どのような命の贖いによって得られたものか・・決して忘れてはならないと思います。

時に雄雄しく、時に重労働に耐えこの国に尽くしてくれた軍馬たち。今は緑の草原を軽やかに翔けていますか?  気休めであっても、そうであって欲しいと願います。

太平洋の底に眠る軍艦たち・・・この大きな碇がその一部であれば、船霊も共に祖国に帰れたのだと思えるのです。

奉納された神馬の腹掛けに輝くのは桜の紋章。御神紋であり、また軍の徽章としても用いられました。

静謐さの中に静かに在る神の社、そこに眠るのはただひたすらにこの国を守りたいと願った方々の御霊です。私たちはその事を決して忘れてはならないと、・・何よりもその存在を貶める愚者を許してはならないと思うのです。

最後の画像は、旧大日本帝国海軍兵学校において用いられた五つの訓戒「五省」の碑。いずれも簡潔明瞭に、人が生きていく上での大切な事を、きっぱりと説いており、現在は海上自衛隊幹部候補生学校で用いられていると聞きました。
一、至誠に悖るなかりしか(真心に反する点はなかったか)
一、言行に恥るなかりしか(言行不一致な点はなかったか)
一、気力に缺るなかりしか(精神力は十分であったか)
一、努力に憾みなかりしか(十分に努力したか)
一、不精に亘るなかりしか(最後まで十分に取り組んだか)

香川県護国神社に隣接して鎮座される「乃木神社」。御祭神は『乃木希典閣下』第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王殿下(昭和天皇)の教育係を務められた人物です。

明治天皇への忠義を自らの支えとし、ひたすら純粋に生き『明治天皇』に殉じて自ら命を絶った『乃木希典将軍』。

【神あがり あがりましぬる大君の  みあとはるかに をろがみまつる】

【うつ志世を 神去りましゝ大君乃 みあと志たひて 我はゆくなり】

その夫と共に、護身用の懐剣によって自らの胸を貫き、命を絶った静子夫人。

【出でまして かへります日のなしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき】

乃木夫妻の葬儀は、大喪の礼から5日後の大正元年(1912)9月18日に行われました。沿道を埋め尽くした人の数は推定20万人とも言われ、その様子は「権威の命令なくして行われたる国民葬」「人民として空前の盛儀」と表現されました。また外国人も多数参列したことから「世界葬」とも表現されました。

明治と言う時代は、日本の黎明期であり、また激動の時代でもありました。その時代の中で、凛として美しく生きたお二人だったからこそ、民は御二方を神としたのです。

参拝日:2011年6月18日


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