車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ふらり梼原~町歩き in 高知県梼原町

2020年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

雲の上の町・梼原の町に残る素敵な建物や史跡、早速見て歩く事に。何だろう、このワクワク感😄  まずは「ゆすはら座」。昭和23年(1948)に梼原町の町組によって北町に建設。1995年9月に東町に移転復元されました。

続いては明治24年(1891)に建てられた「旧・梼原町役場」。現在は歴史民俗資料館・別館として利用されています。 明治時代の洋風建築って本当にステキですよね。

「義人 中平善之進 頌徳碑」梼原村庄屋として「津野山騒動」と呼ばれる百姓一揆の主導者となり、責めを負って処刑。後に義人と讃えられた人物です。

「発展の礎」碑の前に置かれているのは、高知県の地図の中にある梼原の位置。

さて・・梼原町の観光マップを見ると、必ず出てくるのが「坂本龍馬脱藩道」の文字。 町歩きの拠点にもこのような看板があり、もう町を揚げて脱藩を後押ししています😅 維新の夜明けを目前にしながら凶刃に倒れた幕末の超有名な英雄『坂本龍馬』。彼が絡めば、躓いた石でも名所になりそうですが、かくいう私も龍馬さんと晋作さんの事は好きです😊

「幕末の英雄・坂本龍馬は同志 澤村惣之丞とともに、文久二年(1862)三月二十四日高知を出奔し二十五日に梼原に到着、その夜梼原の勤王の志士那須俊平。信吾父子の家に泊まり、翌二十六日未明、俊平・信吾父子の道案内により、宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて予土県境・韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。」脱藩の道.comより
龍馬が脱藩した韮ヶ峠は愛媛県との県境にあり「歴史の道100選」に選定されています。

三島神社の境内を抜けると、坂本龍馬脱藩の道と書かれた矢印付の看板があります。幕末の歴史が大好きなご亭主殿。早速、龍馬になりきって脱藩を試みようとしましたので、ここは、ご亭主思いの私が、丁重に!蹴りとパンチで思いとどまらせて差し上げました😄

とかく脱藩ばかりがクローズアップされがちですが、梼原には維新に縁の地が何箇所も存在します。何といっても圧巻は、歴史民俗資料館の敷地に作られた「維新の群像」。梼原町にゆかりのある六志士に、坂本龍馬、沢村惣之丞を併せた八人の姿は今にも駆け出しそうな気迫に満ちています。

回天の偉業を夢見ながらも、維新の夜明けを見る事無く壮絶な死を遂げた若き志士たち。新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けたその姿は、今こうして梼原の地によみがえりました。


彼らが見つめる先にあるのは、大いなる希望だった筈、明日の日本を作るのは自分たちの若き志だったはず・・・自分たちならきっと成し遂げられる筈!!

町域には尊皇攘夷論を唱え、国事に奔走して殉死した『吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉』の御分霊、「六志士の墓」が建立されています。

庄屋の跡地に移築された史跡「掛橋和泉邸宅」。代々神職を勤めた子孫により守り継がれてきましたが1998年に現在地へ移転。 神職の身にあって、勤皇の志を抱いて脱藩する同志たちに、家財を費やして援助を続け、それが為に自ら命を絶った・・・・・享年28歳、彼もまた勤皇の志士だったのです。

脱藩とは関係有りませんが、梼原の町内には慶長9年(1604)から11年にかけて、津野山郷各村々に建てられた茅葺屋根の「茶堂」が今も現存しています。 内部に「弘法大師、考山霊、三界万霊」を祀り、行路の人々には茶菓の接待も行われたといいます。

日本3大カルストに数えられる四国カルストの麓に位置する「道の駅・ゆすはら」。生憎と到着した時はすでに閉館しており、楽しみにしていた物産館もスタンプも無し。お日様が高ければ、きっととても素晴らしい風景に出会えただろうに・・。

訪問日:2013年3月26日


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