兄:頼朝に対立し朝敵とされた『源義経』。難関であった「安宅関」も、弁慶の咄嗟の機転と、関守:富樫の温情によって無事通り抜けることが出来ました。そうして現在の能美市道林町まで来たとき、弁慶は己が主である義経にした仕打ちを涙で詫びるのです。
「いかに関を抜けるためとは言え、命よりも大事な主を打ち据えた事、到底許されざり・・・」
それに対し義経は、「そなたの機転で助けられた」とその忠誠心を厚くねぎららいます。
弁慶が謝罪をしたとされる道林寺跡には、その時の様子を写した銅像が建立されています。 実際にこの一連の出来事があったのは、現在の富山県高岡市の「如意の渡し」と云われています。 が、場所が何処であれ、敗者に思いを寄せる判官贔屓の日本人らしい、美しい主従の姿。
「時は文治三年二月十日のこと、義経は安宅の関所を、弁慶と富樫との勧進帳の問答により、無事通過する事が出来た。そのあと当道林寺で弁慶は「主を金剛杖で打った罪」を心から謝罪した。義経は「機智の働きは天の加護」とその忠誠を心厚くねぎらった。ここがその伝承の地である」碑文より
銅像の近くに自然石の句碑。
【 主従の あつき涙や 春しぐれ(作者不詳)】
【「源平盛衰記」によると、寿永2年(1183)、源氏方についた加賀国住人『井家次郎範方』一党17騎が『平維盛』軍と戦い、11度の戦闘を仕掛けた後、根上の松まで追い詰められて壮絶な討ち死にをしたとされます。 安宅関を抜けた義経たち一行はこの地を訪れ、戦死者の冥福を祈ったのちに岩根宮へと向かったということです。】現地案内板より
「源平古戦場跡」には、根上町の町名の由来ともなった推定樹齢110年の黒松があります。 樹高14メートル、根が地面より60センチほど隆起した様子は、まさに根上りの名の通り。駐車場が見当たらなかった為、ここに立っているのは私1人・・この感動を分かち合える人のいない事がとても残念。
一人で来ると、どうしても待っている人が気になってゆっくり出来ないのが辛いところ。さぁ、急いで下りなければ・・と言いつつ、碑文らしきものを見つけたので画像に・・何々?
「浜清水 末期の水 山を背にした根上りの地区では生水のよく出るところが三か所あり、その一つの新記家では溝を掘って池に溜めていた。水量も豊富だった昔(大正の頃)は、この水で水車を回し、米かち用として利用していた。この新記家の水は、「末期の水」として近在に知られ、一升ビンを持ってもらいに来る人も多くいた。」
更に義経主従とは関係の無い内容ですが、弁慶謝罪の地にあったのでこれも紹介(笑)「無形民俗芸能・獅子舞ドットコセー節」 道林町に伝承されている「大きやり(鯛網大漁音頭)」で、明治時代釜屋村の漁師たちが大漁の際、日本中の船の神様に感謝を込めて唄ったと伝えられている。地元で唄われてきた「大きやり」の節に合わせて、全国六十余州の船霊様を順次唄ったものである。
松が生い茂る道林寺跡・・落ちのびてゆく義経主従にとってこの景色はどのように映ったのだろうか・・
訪問日:2015年10月21日
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