車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

金剱宮(きんけんぐう)~其の一 in 石川県白山市

2017年10月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

白山市鶴来日詰町に鎮座される「金剱宮(きんけんぐう)」。白山七社の一つで、白山本宮(白山比咩神社)・三宮・岩本とともに本宮四社の一つとされます。御祭神は神武天皇の御曽祖父神『天津彦彦瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)』。配神『大國主神・大山咋命・日本武命・事代主神・猿田彦神』

「中世以来白山七社の一に数えられ、そのうち白山本宮・三宮・岩本とともに本宮四社といわれていた。神仏習合の当時、いわゆる七堂伽藍雲表にそびえ神官社僧、即ち神人衆徒多数をようしていた。安徳天皇の寿永2年5月、源義仲が倶利伽羅谷で平家の軍勢を打ち破ったが、これを金劔宮の神恩として、鞍置馬20頭と横江庄を寄進し、それから3年の後、後鳥羽天皇文治2年2月10日、源義経が本社に参拝一泊し、神楽を奉納している他、足利・富樫・前田等、歴代武門藩主の崇敬が篤かったのである。なお、和銅年間に当宮のご分霊を奉戴して移住したといわれる岐阜県郡上郡大和町字「劍」には現に金劍神社(こんけんじんしゃ)があり、御祭神も同一である。最近になり福井県遠敷郡上中町武生にも金劔神社(かねぎじんじゃ)の存在が明らかとなった。」石川県神社庁より

明治39年(1906)境外末社「大國社・恵比須社・日吉社・ 大鳥社」を合併。明治41年(1908)境内末社「菅原社」を、大正3年(1914)村社「日吉神社」を合祀。

拝殿は前口五間、奥行五間の権現造銅板葺、入母屋造大唐破風の向拝を張り出し、幣殿・本殿へと奥一直線に配置。明治16年に造営を開始し、明治23年に完成しました。

参道脇左右より神域を守護されるのは、昭和六年(1931)奉納のブロンズ製狛犬さん一対。 引き締まった体躯にすらりと伸びた四肢、どんな不届きも許さないと言った鋭い眼差しがいかにも頼もしい。

本殿の塀前より神域を守護される狛犬さん加賀獅子タイプの狛犬さん一対。吽形さんの角の何とも立派なこと。 自然石をそのまま用いたような台座と、狛犬の体とが一体として彫られています。

境内の一画、玉垣の内に「天の真名井(あめのまない)」。天平年間(729~749)から伝わる古池とされ、大干ばつの時も長雨の時も変わらぬ水量を保ち、「明星水」「天忍石水」として住民からの尊敬を集めてきました。

「天忍石(あまのしのぶのいし)」は、影向石(ようごうせき)とも呼ばれ、鶴来町誌に【金剱宮境内社頭のこの石は、古くよりこの石に神霊が降臨した影向石で、天忍石と呼ばれてきた】。別名の「牛牛(丒石)」は、形が小牛に似ているところからとも言われます。

形が似ていると言う点ではこの「亀石」などはまさしくですが、特に謂れなどは無いようです。

北陸地方では随所で目にする『義経』ゆかりの地。この境内にも義経に由来の「義経腰掛石」が残されています。「義経記」によれば、文治二年(1186)、京都から奥州へ落ちる源義経主従が金剱宮に参拝し、その折、夜通し神楽を奉納したと記されています。義経は境内のこの石に腰掛け、眼下に広がる平野や手取川を眺めたと伝えられています。

寿永二年(1183)春、源義仲が倶利伽羅谷合戦の大勝を奉謝して鞍置馬20頭を寄進した故事。それを紀念し奉納された青銅製の御神馬の腹帯には「五七桐紋」の神紋。古代に天皇家の紋として使われ、後に功績のあった武門に賜ったとされる紋章です。そういえば拝殿の回廊に懸かる金銅製の釣灯籠は「十六八重表菊紋(皇室の菊紋)」でした。

明日は境内に数多鎮座される境内社の紹介です。

参拝日:2011年10月12日&2015年10月20日

 


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