車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

伊藤公記念公園 ・伊藤公資料館 in 山口県旧大和町(光市)

2024年06月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

光市束荷(つかり)にある「伊藤公記念公園」。その一画にマンホールのデザインにもなった「旧伊藤博文邸(県指定有形文化財)」があります。

明治43年(1910)、伊藤公の遠祖・林淡路守通起の没後300年にあたって、林一族及び伊藤家を集めて法要を行うため、伊藤公自らが基本設計を行って建てられた建物。

その完成を楽しみにしていましたが、明治42年(1909)10月、完成を目前に韓国のハルピンで暗殺され、故郷に戻ることなく無念の生涯を終えました。

2004年2月、大規模な補修工事を終え、改めて旧伊藤博文邸として公開された建物。磨き込まれた窓の向こう、木々の紅葉の中にすっくと立つ人の姿は・・

「伊藤博文公」像。完成を見る事ができなかった邸宅を末永く見守ってもらおうと、2004年3月に建立された旨が、公式HPに紹介されています。

この訪問から既に二十年が過ぎ、いま改めてブログを書くために画像を選び、志半ばで凶弾に倒れたあなたを思う時、113年の時を隔てて、主義も何も持たない愚者の凶弾に倒れた安倍元総理の事を考えずにはいられません。

「悠然天地心(ゆったりとした天地の心を感得して 事にあたりたい)」と刻まれた碑。明治天皇が山口県を訪れた時に随行した伊藤公が、その時の 思いをしたためた五言絶句の一節ですが、この揮毫が安倍元総理と知ったのは、今ブログを書いているこの時。安倍元総理を思わずにはいられなかったこの瞬間に、安倍総理の揮毫された碑を見る・・その偶然にこみ上げるものを抑えきれませんでした。

感傷はひとまず置いて、旧伊藤博文邸に隣接するのは、レンガ造りの明治風建築「伊藤公資料館」。伊藤博文公の遺品等を展示し、その業績を紹介するとともに、幕末から明治末までの日本の動きを学習する場として開設されました。

更に資料館に隣接するのは、1991年に現在地に復原された「博文公生家」

伊藤博文・幼名を林利助。天保12年(1841)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵と、秋山長左衛門の長女・琴子の長男として誕生。この茅葺のささやかな家は利助(のちの博文)が生まれて5歳になるまでを過ごした家です。

弘化5年(1846)、破産した父が萩へ単身赴任した為、母の実家へ預けられた利助は、嘉永2年(1849)、8歳の時に父に呼び出され萩に移住。その後の事は、4月12日の「松下村塾界隈~ふらり見て歩き」で紹介しています

彼がこの家で過ごしたのは幼少期迄の僅か5年・・おそらく記憶の中に刻み付けられる程の思い出は無かったと思います。

生家の裏には、伊藤公が産湯に使ったとされる井戸

資料館の裏手にある階段を上って左に進むと、伊藤神社があった跡地に整地された「伊藤広場」に出ます。ここには、伊藤公の面影を偲ぶ目的で昭和35年(1960)10月に建立された「伊藤博文座像」があります。

伊藤広場から一望する「伊藤公記念公園」。伊東博文公が見る景色を、今私たちも見ています。

ここでほんの少し笑える話を。観光地にお約束の顔出しパネルですが、何とここにも用意されていました。伊藤公の肖像が使われた千円札の顔出しパネル。これは・・正直受けました😆

鮮やかな紅葉に彩られた白亜の洋館「旧:伊藤博文邸」。

訪問日:2013年4月13日

 

コメント (4)
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