発行人日記

図書出版 のぶ工房の発行人の日々です。
本をつくる話、映画や博物館、美術館やコンサートの話など。

「BABYFACE」非情のライセンス

2011年10月08日 | 本について
井上雄彦「BABYFACE」(「カメレオン・ジェイル」集英社 収録)

◆殺し屋なる職業というのが存在するのかどうか。

 コミックの世界では、殺し屋といえば老舗のゴルゴ13ことデューク東郷さんだが、この人は何を考えているかよくわからない。
 若い殺し屋といえば、「ルサルカは還らない」(集英社)のレッド・フレア。
 全5巻の2巻末尾から登場する。IRAのテロリスト→CIAのスパイ→日米の秘密機関の特殊部隊の傭兵→最後は要人警護→任務成功、世界の危機を救い→職場恋愛の恋人(本編の主役、日系三世、麻薬取締局という、USA公式殺人機関にお勤めの公務員)と一緒に、殺し屋稼業から足を洗う、という、めでたしめでたしなお話。
 それから「キリコ」(講談社)の榊キリコ。
 これはもう、どノワール。全4巻の中で何人が殺されるでしょう。冒頭、雑踏の中で無表情に弁護士を殺し、末尾で雪の中、泣きながらその弟を殺す。なぜ殺人マシンとして育てられた彼女が泣くようになったのか、なぜ殺される男が微笑んでいるのかというお話。
 いずれも卓越した戦闘力を持つ美女である。
 ともかく、殺し屋は、誰かに恋すれば、別れるか相手を殺すか足を洗うかのハードボイルドな三択となる職業なのである。

 さて、「バガボンド」「リアル」の井上雄彦、圧倒的画力の人の昔の短編作品「BABYFACE」。20年前も絵がうまいが、今とは全然違う。1988年の「楓パープル」(これも「カメレオン・ジェイル」収録)は、主役が吉田秋生、女の子が弓月光っぽいし、アール・ヌーボーっぽい扉絵は一条ゆかりが当時やってたような気がする。好きな漫画家を見ながらいろいろ試してたのだろうか。それから精進を続けて現在に至るということなのでしょう。
 この、31ページほどの短編「BABYFACE」(初出は1991年暮)に登場する殺し屋は23歳の青年。
 彼の「組織」は、物語の中でははっきりしない。彼に手短かな言葉や簡単なメモで指示を行う初老の背が高くメガネの男、ぱっと見は、定年間近な管理職、もしかして外人、がひとり出て来るだけである。組織は彼のことを「BABYFACE」と呼んでいるらしい。

 物語の核心部分に触れますが↓
 彼の卓越した資質は、殺しの能力だけではなく、その名の通り虫一匹殺しそうにない優しげな童顔にある。それは人を欺くための演技ではなく、天然のようである。無邪気に子犬に語りかける彼を誰も警戒しないだろう。それが、標的の写真と拳銃を指示とともに与えられると、無表情な殺人者となる。
 チンピラとかヒットマンとかいう言葉がそぐわぬ、まさに「組織の優秀なるプリンス」は、任務を遂行すると、すぐさま「組織」の用意した遠くの町の住居へと移らないといけない。
 話の中では、BABYFACEくんの名前はわからない。「組織」が、行く町ごとに違った名前を用意しているのかも知れない。

 さて、北国での仕事を終えた彼は、東京渋谷に居を変え、一ヵ月後には工事現場で働いている。お節介で気のいい同僚・哲也が、憧れのコンビニレジの女の子との仲を後押しし、ついに彼はクリスマスデートの約束をとりつける。
 哲也には「純情で人の良い男」としか見えていない。実際、普段の生活では純情で人が良いのである。
 クリスマスイブ、雑踏で花束を持つ彼。いつもの作業服ではなく、ツイードのジャケットに、ネクタイ、ピーコート。童顔に似合うトラッド系でキメている。
 彼のもとに現われたのは、組織の男。手短かに指示をして去っていく。
 展望エレベーターで実行場所に行く途中で、遅れてきた彼女の姿を認める。もちろんいつものコンビニの制服でも、地味な通勤着でもなく、可愛くおしゃれしている。カチューシャにハートのイヤリング、チェックのミニスカートにタイツ、コートはきっと赤だ。
 エレベーターの窓から外を見て涙する青年。普通の男の子の幸せ(って言うのか?)が、逃げていく。
 次の瞬間、エレベーターのドアが開き、サイレンサーつきの拳銃で、ターゲットを至近距離で撃つ。
 また別の町に行くことになった。ひとなみの恋や青春を置き去りにして。
 まあそういうお話である。

◆話はその後どうなるのか。

 で、続きの展開を勝手に書いてみる。
 またコンビニでレジを打つ日々がはじまった彼女。数日後、彼の同僚哲也が現われる。「奴はどうしてるんだ?」「奴って? 一体何の話よ?」
 クリスマスイブの日、約束の時間の直前に、彼と会っていた件を哲也は彼女に話す。一緒に花屋に入り、彼女に渡す花束を買ってから別れたのだと。
「奴とはそれっきりだ。身内だという人から辞めるという電話が一本かかってきた。詰め所に少し荷物があったんで、昨日、親方と一緒に履歴書の住所に行ってみたら、空き家なんだよ。全然連絡とれないんだ。何か知ってないか」
「知ってるわけないでしょ」
「てか、……おまえら、デートしなかったの?」

 ……どういうこと?

 20分遅刻したら、いなかった? 
 うん。私がついてじきに、何かあったらしくてパトカーとか救急車とかたくさんきて、すごく騒がしかった。もしかして、事故に遭ったとかかな、と思いながら待ってたんだけど。
 ああ、ニュースでやってた。どーせ、ヤクザの抗争かなんかだろうが、何もクリスマスイブにやらなくてもいいのにな。
 多少の遅れは大目に見ろと言ったんだがなあ。ほら、あの角の花屋で花買ったんだ。あんたのために。結構大きなバラの花束だったよ。
 あいつは、本当にあんたのことが好きだったんだよ。それだけは言えるよ。
……しかし、20分待てないってのはあり得ねえ。わけわからんな。

 こんな具合に、大きな「?」を2人が抱えたまま、終わるというのが順当(?)なところか。置いてけぼりを喰らったこの2人が仲良くなるかどうかは不明である。

 では、彼女がもし約束の時間に来ていたらどういう展開になったのか。
 まさか女の子と会ってる彼に、殺人指示を与えるわけにはいくまい。微笑ましいカップル(本当に可愛く描かれているのだ)の楽しいデート。 
 しかし、彼は稼業から足を洗うことができるのか? それができない限り、もっと悲しい別れが待っているのではないか。いずれ次の指示を実行すれば、遠くの町に行かざるを得ないのだから。

 あるいは、哲也が、野次馬根性で、ちゃんと彼女とのデートとなるかを見届けるため、どこかから彼を監視する、という展開もありうる。突然現われた、謎の初老の男と花束を交換し(そのとき、拳銃とターゲットの写真も受け取っている)展望エレベーターに乗った姿を確認されていたとしたら。
 その日起きた殺人事件と、消えた童顔の男が関係あると、哲也が認識したとしたら。

 とまあ、31ページほどの短編ですが、かように楽しめるわけです。

コメント
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