発行人日記

図書出版 のぶ工房の発行人の日々です。
本をつくる話、映画や博物館、美術館やコンサートの話など。

埠頭をわたる風2020

2020年08月24日 | 物見遊山

◆埠頭を渡る風2020

 

 博多港博多埠頭。通称ベイサイドプレイス博多。博多ポートタワーは、名古屋テレビ塔や通天閣、東京タワーなどの全国内藤多仲設計タワー兄弟の末っ子なのだが、博物館もタワーも改修工事は済んだのに諸般の事情で一般入場不可。たぶん今後も入場無料。再開のあかつきには是非おいでませ。

 博多埠頭は市営渡船と五島・壱岐対馬へのフェリーが発着する生活港だが、西鉄のレストラン船に乗ることができる。要予約で、乗ったことないので調べてみたが、今なら10人までキーマカレーでよければランチクルーズ100分2200円(通常なら乗船のみの料金だったかと)のプランからある。いつもの夏なら市営渡船が夕方に納涼船営業をするのだが、今年はない。渡船乗車口近くのオープンエアのビアガーデンだけが、席数は多くないが賑わっていた。

 ここのスーパー「湾岸市場」の持ち帰り握り寿司が人気で、デラックスネタも含めて一貫100円均一。消費税を1割払えばイートインもできる。中トロとウニとアナゴとアジ食べて、海風に吹かれて船を眺めれば、夏休み気分である。

 

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いつもと変わらない夏

2020年08月21日 | 日記

◆呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン

 私にとっては、いつもと変わらない夏。単独行は電車となる。電車は空いていて静かである。県境を越えて家族に会いに行くと咎められることがあるらしい。勝手にさせてよ。あと何度、高齢の身内に会える夏があるというのだ。来いと言われれば行く。

 ともかく電車が空いていて、新山口駅など、新幹線口のお土産売り場が丸ごとお休みで、その中に入っていないお店は営業していたから、まあ6割見当は休業していたように見えた。観光客も帰省客も少ない夏だったのだ。

 身内の人々に会い、話し、合間に大乗仏教と末法思想について読書する(笑)といった、極めてお盆らしい過ごし方をした。

◆いろいろ解せぬ

 安心安全など、誰も担保してはくれない。そんなものはない。これは私が20代のころに叩き込まれた思想だが、なぜコロナウィルスの一種に限って安心安全を厳密に要求するのだろう。ほかのすべてを犠牲にして。

 近所のファストフード系飲食店は、新型コロナ感染者が出ただけで一週間くらい休業していた。食あたりが出ても、保健所はそれほど長い営業停止はしない。

 今回の新型コロナについての社会の(過剰)反応を、武田邦彦氏は「テレビウイルス」、小林よしのり氏は「インフォデミック」と呼んでいるが、テレビをほとんど見ないので、ピンと来ない。

 ただ、昨日ラジオのニュースで聞いて驚いたのは、自治体単位でのコロナ重症者のカウントの基準が統一されていないというのだ。2月3月の話ではなく、今のことで、同じ患者さんが隣の県では重症になったりならなかったりということだ。どちらかというとあまり心配していないタイプの人間が、そりゃないよと思うのだから、心配でたまらない人は怒っていいと思う。基準がバラバラなら統計を見て判断できないではないか。厚生労働省はなにをしているのか。行き当たりばったりではないか。

 大事なのは、感染者累計から回復者累計を差し引いた数のはずで、でも、回復者の数が新規感染者の数より多い日もあるのに、それはニュースにはならない。もともと「感染者数」というのも症状が出てない人を含んでいるわけで、ワクチンもこれといった特効薬もないにもかかわらず、少なくとも日本においては1日に少ない日はゼロ。多い日でも20人亡くならない病気の健康保菌者をカウントしているのだ。その数字に一喜一憂して、業種によっては、とてつもない犠牲を払っているのだ。解せぬ。

 

 

 

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祭囃子は聞こえない

2020年08月09日 | 日記

◆NAI NAI TWENTY²  (←この文字列にすぐメロディがついたあなたは私と同様に古い ) 

 久しぶりに博多に出る。筑紫野市と太宰府市に用があったが、大宰府の目的地がJR駅に近い場所だったので、博多経由で帰宅することになったのだ。

 「夏休み」の雰囲気ではなかった。駅コンコースを歩いていても、夏休みにつきものの、ちいさなお子様の阿鼻叫喚が聞こえてこない。中高生の私服グループも見当たらない。券売機の上にある行先案内を見てあーだこーだ言っている団体がいない。夏休み感の薄い博多駅である。夏につきものの「目いっぱい生きてる感」が欠乏している。

 観光案内所のわきにある印刷物の棚に、JR九州の月刊PR誌がない。よく見ると4月で休刊ですと。駅のショッピングセンターに行くが、やはり人が多くない。夏休み的でない。採算とか損益分岐点といった文字列が頭を掠める。

 駅前広場は通常ならばイベント花盛りなのだが、静かである。鉢のひまわりが持ち込まれて夏らしさを出している。

 ほとんどのイベントがなくなった。夏になれば博物館の野外コンサートに行ってたのだがそれも中止。 

 どんたくも山笠もなく、大牟田大蛇山(何年か前の様子→)https://blog.goo.ne.jp/thinkingfishing/e/7efcd2ec5e1f41b20d6df421c538f4adもなく、9月になっても放生会(筥崎宮の秋まつり)もない。唐津くんち巡行も中止が決まった。露天商は相当ヤオイカンことになっているのではないのか。小笹総研の雇用指標であるTW指数(無料配布されているタウンワークの重量、天神博多版で計測している)はほぼ53gをキープしている。合併号でも60g台で、劇薄の危険水域である。さぞ募集に人が殺到しているかと思うのだが、ある短期バイトの説明会に行った知人は「時給いいのに過疎ってた」と言ってた。たまたまならいいのだが、不採用に倦んでやる気なくした結果とか、家を出たくないとかだったら深刻だ。

◆憂鬱が都市を支配して

 家のマスクの備蓄が少なくなったので、町で買うが、二箱2000円、一枚20円ってところである。普通のマスクでウイルスは防げないが、人に飛沫を飛ばさないですむ。これは昔からいってたことだ。手は、手荒れが完治してからはよく洗ってるほうだ。

 人生も後半な私はともかくとして、子どもや若者はどうなんだろう、この夏は。彼らの「目いっぱい生きてる感」が奪われている。毎年違う夏を楽しむ使命が彼らにはあるのに、人生が損なわれている。新型コロナのせいにしていいのか。なにかできることはないのか。

 

 

 

 

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もし、あなたが閉塞感にとらわれているのなら

2020年08月02日 | 本について

◆愛に地球は救えるかどうかは定かではないが、読書は人類を救う(……と版元だから言ってみる)

 もし、あなたが閉塞感にとらわれて苦しんでいるのなら、スマホを切りPCを閉じテレビを消して、可能なら、好きな飲み物と好きな音楽を用意して一番家で居心地のいい場所で紙の本を読もう。無理なら、どこか居心地のいい場所を探して、他人の目が気になるのなら、本に好みのカバーをかけて、本を読もう。見知らぬなんびとにも、あなたの思想、信条、感情、意識を覗き込むことを許さない。それが紙の本だ。読めるだけの明かりがあればいい。バージョンアップも電池切れも関係ない世界で、誰にも管理干渉されない考えを巡らす。どんなスーパーハッカーも、紙の本を読むあなたの頭には入って来れない。少なくとも、自分の考えの全てを有償無償でどこかの誰かに売り渡すことは拒否していられる。それが魂の自由だということを感じることができれば、自分を支配しているのは自分だと体感できれば、そのとき閉塞感は消えているだろう。

 だから今日もわたしは、この小さな工房で本をつくっている。誰かの精神の自由のために。

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