今日、青木繁記念碑に行く途中に、もう1つ珍しい場所を訪ねました。
なんと、館山市にある「啄木ゆかりの場所」です。
写真上は、啄木が肺結核で26歳の短い人生を終えた直後、啄木の妻・節子が数ヶ月住んだ借家(片山かの方)が有った所です。
館山の海岸通りにある館山シーサイドホテルの角(八幡交差点)を八幡神社に向かって曲がります。
ホテルの裏側付近の細い道を右に入ります。
(近くに、イオンの大きな駐車場がありましたので、そこに車を置いて歩きました)
細い道を100メールほど行った左側の、槙の生け垣で囲まれた500坪もある大きな屋敷跡がそうだそうです。
建物は昭和60年頃に壊されてしまい、有りませんでした。
節子は、この時、既に結核の身でしたが身重で、この地で次女を生んで房江と名付けました。
中の写真は、節子が長女の京子と散歩したであろう、すぐそばの海岸から見た景色です。
館山湾(鏡ケ浦)を越えた向かいに三浦半島、右手に大房岬、その先に富士山が見えると言う素晴らさです。
彼女が館山に行くことになったのは、函館にいたときにお世話になった宣教師・コルバン師が中風の療養の為夫妻で館山にいたので頼りにしたとされています。
(同時は、館山迄鉄道が通じていず、東京ー館山間は船でした)
下の写真は、その後、コルバン師がついた教会・アンデレ教会の今の姿です。
節子は、その後啄木、啄木の母親、長男・真一の三人の遺骨を抱えて、既に盛岡から函館に移り住んでいた実家に戻りました。
そして、数年を経ずして、幼子二人を両親に残して28歳で亡くなったそうです。
この話は、9月末に家内と函館に行った際に、啄木記念館の年表に「節子、コルバン夫妻を頼り、館山に住む」と有ったことから調べたものです。
ネットのお陰で、大変貴重な情報が得られました。
それにしても、青木繁には福田たねが、啄木には節子がいて、後世に残る芸術作品ができました。
私にも「家内」がいるので、笛も上手くなれるかな?