“日記は人に見せるものではない、自分の思い通りのことを書けばいいと、常々思っていた。そのような気持ちで日々の行動、感情を書き続けてきた3年連記の日記帳が、いつのまにか十数冊になっていた。ところが、新聞の投稿で、親が亡くなった後、子どもが親の残した日記を読んでいるという話がいくつかあった。これはえらいことや。誰にも読まれないと思っていたけど、私が亡くなった後、娘たちに読まれるんや、と気づいた。ならば、どうすればいいのか。考えた結果、あの世へ行く前に捨てることにした。問題は、いつ捨てるのかであった。どこからともなく「今でしょ」という声が聞こえた。その声に従って、ごみ袋の中ヘー冊ずつ入れて捨てた。
不思議なことに、何の未練もなかった。世の中には自分が生きた証しを残したいと思う人もいるが、私はきれいさっぱり、何も残さず消えたい派である。さて、もう一つ問題があった。どうせ捨てるなら、書くことをやめればいいではないか、という問題が。すぐに自分で答えを出すことができた。それは娘たちに読まれてしまうことを意識して書くことであった。日々、失敗やら度忘れはいっぱいあるけど、自由でストレスのない恵まれた生活を感謝しつつ、今年も書くことにした。“(1月1日付け中日新聞)
三重県度会町の主婦・田中さん(76)の投稿文です。ボクも全く同じ状況にある。ボクも3年連用日記が13冊ある。今年から14冊目に入った。このまま残していっていいのだろうか。後に残った人が読んだらどう思うだろう。傷つくようなことは書いていなかったろうか。恥ずかしくなるようなことはどうだろうか。もう40年も前からのことである。何を書いたかほとんど覚えていない。田中さんのように捨てた方がいいのであろうか。
ボクはこの「話・話」 始めよく文を書くので、いろいろな記録を探すことも多い。でも振り返ってみると、日記まで見て探すことはほとんどなかった気がする。あっても近年のものである。それなら捨ててもいいかもしれない。捨てた方がいいかもしれない。さて、いつ捨てるかである。まだ死ぬと思っていない。病を得て処分する時間があればいい。あっという間に亡くなってその時間がないかもしれない。また新たな悩みが生じた。
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