“昨年六月に腰をひねって圧迫骨折し、リハビリのために毎夕、十五分ほど散歩している。その途上、墓園の入り口の石碑にある言葉と出合った。「この世に生まれ、多くの人と共に生きた喜びをここに!」。全くその通りだと思った。今までいろいろなことがあったが、親や夫、姉弟、子ども、孫、友達をはじめ大勢の人たちとつながったことで私はここまで来られたのだ。
もう半世紀前に読んだ本に「当たり前が当たり前でなくなった時に初めて本当の当たり前の良さを知る」と書かれていたっけ。石碑の前で立ち止まり、あの言葉を胸に刻みつつ何げない喜びへの感謝を忘れないようにしようと思っている。”(3月10日付け中日新聞)
愛知県碧南市の小笠原さん(女・72)の投稿文です。人間は一人では生きられない。生まれてからどれだけ多くの人の手を借りただろうか、考えるまでもない。しかし平穏な時、それは当たり前であまり意識することもない。しかし何かことがあり、それが普通にできなった時、その当たり前のことの良さを知らされる。老いればよりそうであろう。小笠原さんは圧迫骨折をされ、今までの当たり前のありがたさをより感じられた。そしてますます人の手を借りることになる。
老いると言うことは、昨日まで当たり前にできたことができなくなるのである。ボクも少しずつ感じてきているが、まだそれ程でもない。これからであろう。覚悟はしておかねばならない。それが少しでも遅くなるように、ますます精進していかねばならない。本当の勝負はこれからである。
先日3月31日に檀那寺で春期永代経が務まった。その時の法話で正信偈の中の「憍慢」の意味の説明があった。当たり前にすること、と言われた。当たり前にする人は悪い人となる。世の中に当たり前はないのである。
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