寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
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(第2808話) ああ、猿投山

2019年07月04日 | 出来事

  “お天気のよい日、七階のわが家から見える猿投山。卒業した中学校の校歌にも歌われています。懐かしく思っていたところ、偶然にも息子から「猿投山へ行かないか」と誘いがあり、喜んですぐ返事をしました。
 主人を見送り八年目。独居老人の私は腰が悪いのと、いくつかの病気を抱え、昨年夏も熱中症を二度経験するなど、少し心配もありましたが、今年こそ元気でいようと決意しました。果たして登れるかと、前夜はあまり寝られませんでした。当日は息子の後に続きますが、上りになるとさすがに動悸が。何度も座り込む私を、少し上で辛抱強く待ち見守っている息子を見ながら、「頑張れ、頑張れ」と自分に言い聞かせました。
 若いころ気が短かった息子も子を持ち、大人になったんだなと、無我夢中で登りながら少しうれしくなりました。小鳥のさえずりを聞き、新緑を見ながら、やっと頂上にたどり着いた瞬間は、思わず息子とハイタッチ。とても感動しました。
 私にとって思い出深き猿投山は、大きな大きな聖なる山です。根気よく連れていってくれた息子には、大きな感謝です。「また近くの山へ行こう」と言ってくれるので、とても楽しみです。”(6月11日付け中日新聞)

 愛知県瀬戸市の松前さん(女・74)の投稿文です。憧れの猿投山に、一人住まいのお母さんが息子さんに誘われ無事登り切る。さぞ嬉しかったことであろう。松前さんは、猿投山を聖なる山と言われる。そんな猿投山に誘われた松前さんにはいろいろな思いが生じたのだろう。何と言っても息子さんと2人で山に登るのである。親子とてなかなか機会のないことである。その気になって作らねばできない。息子さんの優しさ、気遣いである。嬉しそうなお母さんに息子さんはまた機会を作られるであろう。ボクは老いた親と出かけた記憶はほとんどない。こうした話を聞くと懺悔の念が生じてくる。親子というのはどこかに甘えが生じている。何にもないときはいいが、一つことがこじれると他人以上に大変である。日頃のこうした行き来が、他人以上に必要であろう。


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