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雑感録

あらためて元寇のクエスチョン!

仕事で久しぶりに元寇の原稿を書くことがあったんだけど、あらためて調べ直してみると、またまた疑問がいくつか出てくる。
①軍船の進化
「CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点」などでもやってるように、文永の役での高麗の船は、作るのが簡単な平底の川船のようなものだったという。では、海外貿易にも長けた南宋の軍隊を江南軍に組み込んだ弘安の役ではどうだったのか? 高島沖で発見された元寇の沈没船(1号、2号)では、海底から沈没船のキールも見つかっている。ということは、東路軍の船は相変わらず高麗製の粗末な軍船だったかもしれないが、江南軍の船はキール付きのまともな軍船に進化してたんじゃないだろうか?

以下、Wikipediaの「元寇」より抜粋。
元軍船
文永の役の元軍船

元軍が撤退中に暴風雨を受けた文永の役においては、高麗は軍船を建造するのに「蛮様」(南宋様式)の船(竜骨を持ち、隔壁構造の船)にしたのでは建設費がかさみ期限には間に合わないので、高麗様式の船を造船したとされており、軍船の準備が整っているので日本を征服しましょうとの忠烈王によるクビライへの進言は実態とまったく異なることであったことが記されている。

弘安の役の元軍船
弘安の役において台風により元軍船が沈没した理由として、船の建造が、服属させた高麗人や南宋人に造らせたことにあるという粗製乱造説がある。彼らはモンゴル人支配に不満を募らせていたという前提の下、造船が急務であったこともあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていたのではないかという説である。しかし、手抜きを裏付ける史料は無く、むしろ元朝の官吏・王惲の記事『汎海小録』や『高麗史』には高麗船が頑丈だったことが指摘されており、実際に高麗船での生還者は多かった。詳しくは弘安の役・台風を参照。
※知りたかったのは「高麗船」についてではなく、「江南軍の船」についてだったんだけど…。
また、長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎遺跡」で発見された元軍沈没船の琉球大学と松浦市教委による調査の結果、元軍船の船底は二重構造となっており、頑丈に造られていたことが判明した。調査を主導した琉球大学教授・池田栄史によると、船底に内側から木材を張って二重に補強することで水が入り込まないように工夫していたとみられ、当時の貿易船では見られない頑丈な構造であった。これらの新発見の結果、池田栄史は「(元軍船は)丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と粗製乱造説に否定的見解を示した。
※こっちは鷹島沖なんで、「江南軍の船」のようです。
なお、発見された元軍船の全長は、25〜27mほどと推定されている。また、船体とは別に発見されていた最も大きい碇の一部から推定できる最大級の元軍船は40mに達するという見解もある。

②石築地+河口の乱杭
石築地(元寇防塁)を造る際に、河口から軍船が上がってこれないよう乱杭を打ち込んだという話があったと思うんだけど、あらためて検索してみると
福岡市博物館の元寇防塁店のアーカイブズに「室見川・多々良川の河口には乱杭・切立が打たれた」とある。ところで切立(きりたて)ってなんだろう?
「ハカテン」の「博多小学校の石塁遺構」博多で本物の元寇防塁が展示された大迫力の資料館」の記事に「防塁は陸地側からは傾斜をつけて馬が乗り上げられるように土が盛ってあり、敵の侵攻してくる方向、海岸側には乱杭や逆茂木(戦場や防衛拠点で先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べて地面に固定し、敵を近寄らせないようにした障害物)を設置して乗り越え難く作られていました」とある。
ベトナム(当時の陳朝)が1288年の第3次元越戦争の白藤江(バクダン河)の戦いで元軍を撃退した作戦が同様に川底にたくさんの杭を打って元軍の軍船を動けなくするもので、見つかった杭の遺跡群は2012年にベトナムの国の史跡に指定されている。
VOV5 WORLD 記事①記事②


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