雑感録

『刀伊の入寇〜平安時代、最大の対外危機〜』(ネタバレ注意)

元寇のおよそ250年前に起こり、僕の知る限り資料が少なくて、葉室麟の歴史小説『刀伊入寇〜藤原隆家の闘い〜』ぐらいしかその全体像が知れるものがなかった「刀伊の入寇」。なんせ、元寇以前に日本が外敵に襲われて、福岡でも陸上戦が行われたという大事件で、松浦党(まつらとう)の始祖と思しき人物も関わっていたらしいというのに、フィクションに出展を求めるぐらいしかなかったんだけど、松浦関係の某神社の宮司さんの話(人づてに聞いた)で、ちかごろ「刀伊の乱」の本が出たらしいと聞いて、さっそくアマゾって(ググってではなく)みて見つけた本。ちなみにタイトルは「刀伊の“乱”」じゃなく「刀伊の入寇〜平安時代、最大の対外危機〜」だったけど、“入寇”という言葉には、国防理念を前提とする価値観が付与されていると著者は語っていて、フラットな立場から表現すれば「刀伊の来襲」が妥当なのだとか。実際、ちかごろの教科書では「刀伊の来襲」と表記するものが少なくないそうだけど、この本のタイトルには一般的な「刀伊の入寇」で、本文中では「刀伊の来襲」または「刀伊事件」という表記を使っている。

「刀伊の来襲」が始まったのは、1019年(寛仁3)3月28日、まず対馬・壱岐が襲われ、4月7日にはその報が大宰府に伝えられた。注)大宰府の表記は本書に従った。同日には、賊は筑前・志摩・早良の3郡に侵攻。大宰府側は、兵を博多警固所に派遣して、8日・9日と防衛させた。矢戦で兵十余人を討ち取られた刀伊軍は能古島に帰陣。
警固所”については「新羅海賊での経験が小さくなかった」と書いてあるので調べてみると、869年に2隻の新羅の海賊船が来寇するという事件があり(新羅の入寇)、この事件により警固所が海防の施設として設置されるようになったのだとか。また、この矢戦では、後の文永の役では元軍にバカにされたという(「八幡愚童訓」の記述なので、真に受けてはいけない)「鏑矢」での威嚇が功を奏したという。
12日になると、夕刻に上陸した刀伊軍を太宰府軍が撃退・追撃。権帥・隆家は追撃を「壱岐・対馬等ノ島」の「日本ノ境」に限るよう令達。「新羅ノ境ニ入ルベカラズ」と、領海侵犯を心配した。
さらに13日には刀伊軍は松浦郡にも上陸するが、これを迎撃すべく「前肥前介源知(さとす)」が登場。郡内の兵士を率いて数十人を弓矢戦で倒し捕虜一人を得て、刀伊の賊船を撃退した。

「刀伊の侵攻」に際し、太宰権帥(役職としては次官だけど、実質上の長官)として迎撃の指揮をとったのは、『刀伊入寇〜藤原隆家の闘い〜』にもある通り「さがな者」と呼ばれた藤原隆家。「帥、軍を率い、警固所に至り、合戦す」とあるように、貴族である隆家自身が戦闘に参加するのは普通ならばありえんこと。ちなみに、“警固所”というのは赤坂の「博多警固書」以外にも各地にあって、ほかには「肥最崎(ひのみさき)警固書(長崎県西彼杵郡)」の存在が知られているらしい。また、国家としての軍制が整ったのもこの時期らしく、兵力としては次の2種類「ヤムゴトナキ武者」と「住人系武者」。「ヤムゴトナキ武者」は、散位(位階の身で官職をもたない)の肩書から大宰府の現任ではなかったが、各所の刀伊戦で、矢戦に秀でた武者。「住人系武者」はその氏名・出自から地域に基盤を有した勢力だ。彼らは地域領主としての顔を持つ「地方名士」に該当した。国司系の官暦を有した前源知もそのような立場の人だろう。

刀伊戦の戦闘終結後、「大宰府の藤原隆家から功労者たちの氏名が届けられた」として、またまた「源知」の名が出てくる。
源知は「住人」系武者ながら嵯峨源氏の末裔の可能性が高く、初代・源融(とおる)の例に違わず、多くが一字をもって実名としていたらしい。源知の武功は松浦郡での合戦に際し「多ク賊徒ヲ射ル、又生捕り一人を進上」との理由によった。しかし、松浦党との関係はっきりしないし、松浦党の始祖源久(ひさし)との関係も不明とある。結局、知は武功の賞を得て、それが松浦方面での土着・住人化が促進されたものと思われる、という、曖昧さは残ったままだ。源融流の系譜を見ても載ってないし。

このように延久元年以前においても、松浦一族の先祖と思われる者が、国司や在庁官人として活動していたとされる。また、同じくWikiでは「刀伊の入寇」の時、肥前介源知はこれを撃退したが、第8代松浦久以後の松浦党は海上に活躍する者が多く、元寇でも大いに特技を海上に発揮した。とあるので、源知はまったく関係がない訳ではなく、松浦党の創成期になんらかの関わりがあったことは伺えるといったところか。知はこの刀伊戦の活躍で土着化・住人化が促進されたと思われる。

最後に長嶺諸近という、刀伊入寇〜藤原隆家の闘い〜にも出てきた在長官人に目を移すと、諸近は3月末の刀伊軍対馬来襲のおり、妻子とともに賊船に捕えられたものの、刀伊軍が退去する帰路、対馬で単身脱出。その後、賊船に残された母や妻子を案じ、渡海禁制の高麗へと渡海。そこで通詞(通訳)の仁礼という人物に会い、賊船には多くの日本人がいて、3カ所から300人を救出、残り2カ所の日本人捕虜も送還される見込みとの情報を得たが、諸近の母・妻子はすでにこの世にはなく、見つかった伯母を伴って帰ったのだとか。数字的にいうと、wikiに近い結末でした。


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刀伊入寇〜平安時代、最大の対外危機〜

関 幸雄著
中公新書刊


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