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雑感録

福岡なるほどフシギ発見〜おまけ35〜 遠い遠い英彦山神宮

 
紅葉シーズン真っ盛り。制作中の神社本*(注1) のために、英彦山神宮にお参り(&撮影)に行ってきた。
英彦山神宮といえば、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神々のうち、宗像三女神が宗像大社に、天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)が英彦山神宮に祀られていて、両社は遠賀川の下流と上流に位置しているというイメージだけがあって、てっきり宗像大社と英彦山神宮は近くにあるもんだと思い込んで(相変わらずや)、帰りは宗像大社神宝館の「大国宝展」でも見てこようなどと呑気なことを考えていた。
念のためにGoogle MAPで確認してみると、英彦山神宮は宗像大社とは全然方向違い。ルートも八木山バイパス経由と大分自動車道経由という、これまた方向違い???のルートが候補に上がっている。英彦山神宮のサイトでアクセスを見てみると、福岡市方面からは「国道201号線・八木山峠経由で約1時間30分」と書いてある。ならば、八木山バイパス経由がベーシックなルートなんだろうと思って、昼の透析液の交換を少々繰り上げで済ませて、さあ、出発。



車のナビも大分道経由を推奨していたけど、敢えて無視して八木山峠を越えて、一時期よく行った嘉麻市も越えて、遠賀川の源流地区も通過したけど、走っても走っても一向に着かない。
「こんな遠かったんかーい!」とぼやきながら走ること2時間半、ようやく英彦山スロープカーの麓の駅にたどり着いた。




スロープカーの駅の近くにある銅(かねの)鳥居。寛永十四 (1637)年、佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂の寄進による青銅製の鳥居。「英彦山」の扁額は享保十四年(1729年)に霊元法皇によって下賜された。ここからおおよそ1km弱、まっすぐ参道が伸びている。

麓の幸(ボヌール)驛。スロープカー(幸号)の車体はなかなかSFチック。

スロープカーは基本モノレール。

スロープカーは途中の花(フルール)驛で乗り換え。ここから線路は2系統になる。右は旧英彦山小学校校舎。今は山伏文化財室とかいうものになってるらしい。クルマや観光バスはだいたいここに駐めてるみたい。


スロープカーからの展望。

終点・神(ディヴ)驛からの眺望。


飯盛神社太祖宮竈門神社など数ある山岳信仰系の神社でもひときわ険しい場所にある英彦山神宮。その成り立ちは少々複雑で、急遽齧ったところによると、崇神天皇四十一年(古墳時代初頭?)、北岳山頂に降臨したというなっが〜い名前の主祭神・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、略してアメノオシホミミが祀られ(上宮。現在の社殿は天保十三(1842)年に佐賀藩十代藩主・鍋島斉正が寄進)、南岳にイザナギ、中岳にイザナミが当てられたのだとか。
神仏習合になって、北岳が法体権現、南岳が俗体権現、中岳が女体権現、合わせて英彦山三所権現と総称されたという。
霊仙寺としては継体二十五(531)年、北魏の僧・善正上人の弟子になった猟師・恒雄(こうゆう)が建てたとも伝えられる。
「日(アマテラス)の御子(アメノオシホミミ)」のおわす神聖な山として「日子の山」と呼ばれていたが、弘仁十(819)年、嵯峨天皇により「彦山」と改称されたとか。
鎌倉期には天台宗の西国修験道の拠点として栄えたが、戦国期に秋月・大友の戦いで社殿焼失、秀吉によって寺領没収元。しかし、秀吉没後に所領を安堵されると江戸時代は小倉藩細川氏→小笠原氏、福岡藩黒田氏、佐賀藩鍋島氏の庇護を受け、元禄九(1696)年には本山派の別格本山「霊仙寺」となり、享保十四(1729)年、霊元法皇の院宣により「彦山」と改称。
明治の神仏分離令で「英彦山神社」となって、昭和五十(1975)年、戦後全国で第三番目の「神宮」となったらしい。
ちなみにこんな山の中だけど、「御潮井採り」が今も続いていて、毎年2月末にはるばる行橋市の沓尾姥ヶ懐まで御潮井を採りに行ってるらしい。


スロープカーの終点から上がったところにある奉弊殿は霊仙寺の大講堂。元和二(1616)年、小倉藩初代藩主・細川忠興が再建し、今年で再建400年。国指定重要文化財。上に見えるのはスサノオを祀る下津宮(「下宮」ではない)か?


銅鳥居から続いている参道。二百数十段あるらしい。

もともと寺の大講堂(仏殿)なので、拝殿・本殿という神社らしい造りにはなってない模様。

鐘があるのも神仏習合の名残か?



ここにも何か建っていたのかな?

天之水分神(あめのみくまりのかみ/龍神)。修験行者が水筒に入れて保健飲用とお守りとしたのだとか。

「上宮遥拝所」とあるが、遥拝所も何も、このまま登っていけば上宮に着く(ただし行程2時間以上。この体ではとてもじゃないがムリ)


帰りはすいぶん暗くなっていて、大分道経由を選択。多少の渋滞もあって、2時間ほどで帰り着いた。あ〜、遠かった。


[追記]
今朝の新聞にこんな記事が載っていた。
山岳信仰の遺跡評価 英彦山国史跡指定へ
 添田町の英彦山について、国の文化審議会は18日、新たに国史跡に指定するよう答申した。審議会は答申で、英彦山を「わが国を代表する山岳信仰の遺跡で、わが国の修験・仏教・神道の在り方を考える上で重要」と評価。県内の国指定史跡は90件目となる。
 英彦山(標高1199メートル)は南岳、北岳、中岳の3峰からなる。山頂では経典を埋納した古代の経塚が見つかり、山中には修験者の修行窟も点在。中世には峰入り行が盛んに行われた。
 戦国期に中核の彦山霊仙寺の建物など多数を焼失したが、江戸時代に小倉藩主細川忠興や諸大名の寄進を受け再興。参道に坊舎が並んだ。1729年には霊元法王から「英彦山」の勅額が下賜され、明治の神仏分離令後、同寺は英彦山神社(現在は神宮)となった。
 添田町は2010年から5年間、英彦山の国史跡指定を目指して民俗、歴史、美術工芸など6部門で調査。山頂から中腹までのレーザーによる地表測定も実施し、山内で宿坊などの建造物跡800カ所以上を確認。今年7月、調査内容を基に文化庁へ意見具申書を提出した。
 町まちづくり課は「英彦山には古代から近世に至る信仰や宗教活動を示す遺構が良好に保存されており、高い学術的価値がある」としている。
 今回指定される国史跡の面積は約90・18ヘクタールで、9割以上が英彦山神宮など社寺の所有地という。
 寺西明男町長は「今年は英彦山神宮奉幣殿の再建から400年の節目で、感慨深い。後世まで適正に保存継承し、多くの訪問客に歴史の価値を肌で感じてもらえるような活用を進めていく」と話した。
=2016/11/19付 西日本新聞朝刊=

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