青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

煙突の見下ろす街で。

2023年03月29日 17時00分00秒 | JR(貨物)

(叢生するヤード@高麗川駅)

JR八高線と川越線の分岐駅である高麗川の駅。川越線と八高南線用の209系が留置されている先に、広い空き地が広がっていて、今ではもう使われなくなった古レールが枯草に埋もれています。ここは以前、日本セメントの埼玉工場(現・太平洋セメント埼玉工場)から出荷されたセメントを満載した貨車が行き交う貨物のヤードでした。バッテンの印がつけられた入換信号機、動かなくなってから相当の長い時間が経過していると思われるのだけど、撤去しないのだろうか。

高麗川駅の北側にある踏切にて、途切れたレールを眺める。北に向かう八高北線と東へ向かう川越線の間、ここから日本セメント埼玉工場に向かう専用線(日本セメント専用線)が分岐していました。まだレール残ってるんですね。日本セメント埼玉工場は、昭和30年(1955年)に現在の日高市原宿に建設された巨大なセメントの製造プラントで、秩父鉄道の三輪鉱山や青梅線の奥多摩(奥多摩工業かな)から大量の石灰石が運ばれてきて、それを原料にしたセメントの製造が行われていました。昭和の終わりごろから原料の石灰石は地下コンベアでの輸送になりましたが、完成品としてのセメント輸送は長期に亘り活況を呈し、関東を中心に高いシェアを維持。鉄道輸送は国鉄によって主に隅田川のセメントターミナル(以下CT)や、東武鉄道の越生線から伸びた専用線(西大家支線)を使って板橋のCTに送り込まれ、都心のコンクリート構造物の製造に大きく貢献。1960年代のピークでは、貨物の発着量で年間1,000万トンに届こうかという勢いがあったのだから恐れ入ります。

高麗川の駅から工場へ向かう専用線の跡。この専用線を使ってセメントの出荷が行われていたのは平成11年(1999年)までで、もう廃止されてから四半世紀の時が流れている。それでも、未だに信号ケーブルの柱?みたいなものがそのまま残置されているのがいかにもな雰囲気有りますね。あまり「廃」なモノを歩いたり廻ったりという事に熱心なタイプでもないのだけど、最近妙に秩父周辺の産業とその産業構造みたいなものに興味があって、ネットで調べたり古い本を読んだりしては、セメント産業華やかなりし頃に思いを馳せたりしている。日本のセメント産業、平成の中期くらいまでは圧倒的にロジスティクスが鉄道頼りで、各地の駅に併設されたCTまで鉄道輸送を行って、そっからトラックで個別の需要に応対するようなシステムだったですよね。国鉄でも「3S(石油・石灰石・セメント)」なんて言ってるくらいで、専用貨物輸送の中核をなしている存在の輸送品ではありました。

専用線の跡は「ポッポ道」という名前で再整備され、高麗川駅と日高市役所を結ぶ遊歩道に転用されています。往時の踏切もそのまま残っていたり・・・運転取り扱いでは、この専用線は制限25kmが厳守されていたそうで、まだ住宅も今ほど建て込んでいなかった武蔵野の風景の中を、DD51やDE10がタキ1900やホキ5700を牽いて日がな行ったり来たりしていたそうな。モノの本などを眺めると、八高線を走るDD51の重連セメント専貨とかカッコいいよなあ~って思うんですよね。八高線の武蔵野の雑木林の中を走るタキ1900と5700の混合編成の重連貨物・・・良さしかないですよねえ(遠い目)。

カーブの向こうに見える太平洋セメントの埼玉工場。秩父工場や三ヶ尻の熊谷工場と同じく、セメント需要の低迷の為に事業規模が縮小され、最大で5本あったセメントキルンの煙突は現在確認するだけで2本のみ。セメントを焼成するための重油価格も高止まりしているし、逆風が吹いている事は間違いないんでしょうね。その分、セメントの原材料として家庭ゴミの焼成灰などの廃棄物を取り込んだり、燃料の代わりとして廃タイヤを混ぜたり、リサイクル環境に配慮した製造手法は進んでいて、焼成時の排エネルギーを使って発電とかもしてるそうですよ。

高麗川の街を見下ろす高い煙突。鉄道貨物とともに栄えた在りし日を偲んで、老夫婦が散歩する姿を見送る。
時代と共に街の歴史は流れ、そして街を支える産業も、姿を変えて行くものです。


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