青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

臨港線追憶

2018年09月21日 21時07分25秒 | JR(貨物)

(昔日の工業都市に眠る@旧三保駅跡地)

昭和59年に廃止された旧国鉄清水港線の終点、三保駅。その跡地に整備された公園の中に、当時清水港線で走っていた貨車と入れ替えに使用されていた日通のスイッチャーが保存されています。清水港線は、東海道本線の清水駅から「三保の松原」で名高い三保半島をぐるりと回って、太平洋戦争のさなかの昭和19年に三保まで開通した路線です。末期は朝の三保行き、夕方の清水行きの一日一往復だけ、客車が貨車に併結されて走るという超閑散路線でした。沿線人口はそこそこあり、決して需要がなかったわけでもないようですが、清水~三保間を静鉄バスが頻繁に走っており、旅客に関してはそちらにお任せ、という態度だったようです。


専ら清水港線の役割は、清水港からの貨物の積み出しと、アルミ精錬のトップメーカーである日本軽金属を中心として発展した三保の工業地帯からの製品輸送や、工員輸送が目的でした。三保の地に日軽金が清水工場を建設したのが昭和16年ですから、戦線拡大の中で航空機の材料としてのアルミ生産はおそらく国策であり、清水港線の敷設は軍需目的の意味合いも強かったのではないでしょうか。スイッチャーの後ろに連結されたタキ8450。日本軽金属の清水工場から、アルミの原料であるアルミナ(酸化アルミニウム)を対岸の蒲原町にある蒲原工場へ輸送する貨車でした。


このように特定の企業が自社の製品を輸送するために製造された貨車を私有貨車と言いますが、あくまで「車籍」は「日本国有鉄道」が有しています。最近は化成品タキも全てコンテナ化されたので、デカデカと私企業名の書いてある私有貨車は太平洋セメントとENEOS系列くらいになりましたかね。あと東邦亜鉛もあるか。こんな地味な貨車とスイッチャーを保存している事に、工業都市の矜持みたいなものが感じられます。通りがかる地元の人は誰も一瞥だにせず、恐ろしく風景に溶け込んでいました。


貨車の「常備駅」という概念も、コンテナ全盛の近代では薄れゆく昭和の鉄道風景でしょうか。私有タキで言えば日本曹達の二本木駅常備、信越化学の黒井駅常備、日産化学工業の速星駅常備、保土谷化学の郡山駅常備、東北東ソーの酒田港駅常備、同和鉱業の小坂駅常備、関西化成品工業の安治川口駅常備とかねえ。子供心に「それってどこなの?」という謎の駅名が貨車に書かれていたものです。常磐線の金町だの馬橋だののヤードにはそんな貨車がゴロゴロしておった。


港の倉庫の狭間に残る、清水港線の廃線跡。サイクリングロードと歩道に転用されているので割と見つけやすい。面影はあるようでいてないような。元々臨港地区の殺風景な中を走っていた路線だったので、当時の雰囲気とはそう変わっていないのかもしれない。それでも巴川を渡る鉄橋は上下可動式の橋だったり、清水港の駅では船積み用のテルファークレーンが晩年まで稼働していたりと臨港線らしい風景があちらこちらにあって、短い中にも魅力的な路線だったそうな。


今でも目を瞑れば、DD13に引かれた貨車と客車の混合列車がガタンガタンと走って来そうな清水港の裏路地。そうそう清水と言えば日本有数の海運事業者・鈴与グループの総本山でしたな。ガソリンスタンドでたまにお世話になってます。今ではフジドリームエアラインズなんかのオーナー企業だったりもする。静岡を中心に陸海空を完全制覇する総合物流企業の鈴与が、旧国鉄清水港駅の跡地に建てたのがエスパルスドリームプラザ。


旧清水港駅のテルファークレーンは、港町清水の産業遺産としてエスパルスドリームプラザ内の敷地で今でも大切に保存されています。この風景に溶け込むと何だか野外ライブのステージの照明の建て込みみたいに見えなくもないけど、組まれたレールに滑車を取り付けて、吊り下げた積み荷を船へ移動させるための荷役設備。主に南アルプスで産出される木材の積み出しに利用されていたようです。ちびまる子ちゃんだけじゃなくて、よく見れば古き佳き港町風情の残る清水の街ではあります。
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