青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

絹の糸、思い出紡ぐ綿帽子。

2024年05月22日 17時00分00秒 | 阿武隈急行

(残雪の山遠く@新田~梁川間)

阿武隈急行線は、旧国鉄の丸森線として作られた槻木~丸森間以外の区間は昭和63年(1988年)に作られた完全なる新設路線です。三陸鉄道、秋田内陸縦貫鉄道や野岩鉄道などの東北の他の第三セクターと同様に、国鉄時代からの計画を地元が引き受けて鉄建公団線として開通させたもので、線路は盛り土や高架、掘割を積極的に取り入れ、その他の部分でも交差する道路はオーバーパスかアンダーパスをしていて、とにかく踏切がありません。いきおい、撮影地として選定されるのは線路をまたぎ越す陸橋からの撮影が多くなるのですが、田んぼの中の高架橋に上がると、春霞の信達平野からは僅かに雪を残す栗子連峰が望めました。

午前中の富野ローカルで福島へ折り返していく8100系。東北本線のバイパス的な要素を持たせ、輸送力増強と、災害時の多重系統化を目的とした阿武隈急行の路線ですが、阿武隈急行が開通する遥か昔から、福島から阿武隈川右岸を通って白石や岩沼方面を結ぶ鉄道の構想はあったのだとか。現在の東北本線は越河から国見のサミットを経て白石盆地に下り、白石川を頼りに蔵王南麓の山間部の端を抜けて宮城平野に至っていますが、信達平野を通らなかった理由は、保原や梁川の住民が「蒸気機関車が走ると煙や音で蚕が繭を作らなくなる」と言って反対したからという話もあります。昔も今も、新しいものに対する忌避やテクノロジーの否定みたいな動きってのはあるものですが、実際には阿武隈川に架橋するルートが敬遠されたのと、阿武隈渓谷の隘路を抜けるだけの土木技術がなかったことが理由とされていますが、真相はいかに。

旧保原町や梁川町などの伊達郡一帯は、現在でも阿武隈川の肥沃な氾濫原の広い耕土を使った農業が盛んにおこなわれていますが、江戸から明治の時代にかけては「信達蚕糸業地帯」として養蚕業のメッカともなっていました。その品質の高さは全国に知られ、鉄道の開通により遥か横浜の港から海外へ輸出されて、日本の外貨獲得に大きく貢献することとなります。絹糸に代わって田園の畔に咲くタンポポの綿帽子に、養蚕で栄えた時代の面影をなぞって。


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