人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

どうでもいい事件

2005年02月22日 | ただの雑談
一昨日のこと。ぼくの職場のそばでちょっとした事件があった。男性の死体が発見されたというのだ。騒ぎがあった時間ぼくはあいにく会議中で、みなが野次馬に興じた話を後で知らされ地団太を踏んだ。死体とは、そばにある堀に沈んでいた土座衛門であった。死後数日でスーツ姿の会社員らしき人間だったとのこと。それほどニュースでも取り上げられなかった様子だ。後にこの人がとある40代の会社員男性だということが判明する。金曜夜に飲んでいたところまでは足取りが明らかであり、その後誤って転落したものとみられるとのことだ。
最近泥酔ばかりしている自分にとって他人事ではないと思った。子供が出来るということは、自分の遺伝子を伝えるという意味のみで考えるなら、ぼくの生物としての役目は終わったと云える。終わったと同時に役目を果たせたとも云える。ぼくがこの世に存在したことによる結果が我が子の存在である、という理屈だ。よってこれでもうぼくはいつ逝っちまっても生物としてやり残したは無いことになる。最近自分の葬式について考えるのにはそういう経緯があった。しかしだからといって泥酔して

♪オラは死んじまっただ~

は、やっぱりカッコ悪すぎる。線路に落ちたぼくを救おうとした外国人(こともあろうか韓国人)の留学生まで巻き添えにしようものなら、ぼくは絶対に成仏できない。

おなじく一昨日、妻の腹にある胎児の性別が判明した。男だそうだ。夫婦揃って、気の毒なことだと思った。まだ見ぬ我が子の将来を憂いた。「彼」が遺伝的に運動能力が極めて低いことが明らかであるためだ。「彼女」ならばそうでもないと思い密かに女の子であることを願っていたのだが、とにかく男の子が運動が出来ないというのはそれだけでコンプレックスである。ほとんど障害に近いと云っても過言でない。人間が成長する中で得る能力とは「生まれつきの才能」プラス「教育」だと思うが、少なくとも彼には天賦の才もなければ両親からスポーツを教わることも絶対にない。ぼくと妻はキャッチボールすらできないし、サッカーのルールも知らない。ぼくと妻は全くスポーツと無縁の夫婦なのだ。だから生まれてくる子は、教育時代を通して自分が周りより劣っている点があるという十字架を背負いつづけるのだ。一方で勉強はどうかというと、知能が高い可能性は高いと云える。特に母方の家系は揃って高学歴だ。秀才かもしれない。よってこのような学歴社会を食いっぱぐれることなく生き抜く能力は強いのかもしれない。
しかし男の子というのは高校生くらいまでは運動が出来る方が偉いものなのだ。その方がモテるしカッコいいのだ。頭が良くて尊敬されるのはせいぜい社会人になってからであろう。あいにくながら、ひとが成長していく多感な10代の過程でずっと劣等感を背負っているということは、その後の人生を大きく捻じ曲げてしまうものなのだ。頭の中が落ち着くまで遠く厳しい道のりとなるはずだ。これは自分の経験でもある。
かつてぼくは世界で自分が一番偉いと信じていた。そうする必要があった。でも我が子にはそんな無駄な思いをしてほしくない。ぼくのようにはなってほしくない。だから教えるべきことは、勉強よりもスポーツよりもまずは寛容のこころ。周囲のひとびとそれから我らのふるさとを愛することから覚えてもらいたい。ぼくみたいに偏った思想をもたないように。ぼくみたいに自尊心と劣等感だけで形成されたショボイ人格にならないために。運動が出来ないことなんて苦にしないくらい大らかな人間になってもらいたい。そしてぼくと同じく次代へ生命を伝えることができるよう、まっとうに育ってもらいたい。

…という希望を考えていると、まだまだ死ねないなと思うわけである。だって想像すると怖いぜ。

自分の息子が変態性欲者の場合。
自分の息子が犯罪者の場合。
自分の息子が朝日新聞社の場合。
自分の息子がニートくんの場合。
自分の息子が万年司法浪人の場合。


おえーっ、嫌だなあ。

えっ、息子がアル中の場合…?
父さんごめんなさい。

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